ガラパゴスでありつづけたい 政治化して対立を煽りつづけるSNS

「あんた、そんなに政治の話、好きだっけ?」 車の運転中に母に言われた言葉にはっとしました

ここ最近の自分のブログの記事を見ると、政治の話が多いです。衆議院選挙の話、アメリカ大統領選挙の話、国民民主党の話……

確かに、最近の自分は政治について考えていることが多かったです。もちろん、2024年が選挙イヤーであることもその理由の一つだとは思います。しかし、それだけが原因ではないと感じます

スマホの画面にはいつもSNSのタイムライン。Xでは今日も当たり前のように政治の話題が飛び交っています。そういえば、最近SNSを見ている時間が長いな、と気づきました

もともと、自分はそんなに政治に興味を持っている人間ではありませんでした。というか大学生ぐらいの頃までは政治に無関心であることを誇っているフシがありました。政治に興味がないことが一種のステータス、みたいな……

2010年代ごろまでのネットの空気感もそんな感じでした(自分の記憶が正しければですが)。政治の話題をする人間は例え匿名でも「めんどくせーやつ」と認識されて、「はいはい」と軽くあしらわれるのが通例だったと覚えています

しかしながら、なんか今のSNSって政治の話をするのが当たり前になっていませんか。それともSNSにはフィルタリングバブルがあるので自分のアカウント上ではたまたまそういう投稿が移されやすくなっていたのでしょうか。「"野球" "政治" "宗教"の話題は他人とはするなと小さい頃教わりましたが、今のネット社会ってこのタブーを平然と犯しまくっています(唯一、宗教に関しては守られているかもしれません)。

というかSNSを使い始めた頃は猫や犬の動画ばっかりタイムラインに表示されて「癒やされる~」だったのに今は政治家の演説とか著名人の発言の切り抜き動画とかばっかり表示されます。SNSのアルゴリズムに変更があったのか、自分の考え方が偏ってしまったのか、よくわかりませんが、何か変わったことは実感しています

そんな変化に先の母の言葉で気が付きました。母はネットに疎い人物なのでネットに染まっていなかったのでしょう。自分も政治に興味が出てくる年になったんだよ、と言い返そうか迷いましたが、ぐっと言葉をこらえました。本当に年の所為なのか? SNSで罵りあっている人々の言葉を見ていると「大人」というより「子ども」っぽいです

ネットに興味関心をコントロールされているのではないか、そんな考えが頭をよぎりました。もともと、世間のニュースに関心などなかったのが自分です。このブログだって、最初の頃は「ネットで話題になっていること」「ニュースが報道するようなこと」については書かないようにしようと思っていたのです

経験的にそういう話題はPVが伸びやすいですが、それ故にPVに気を取られて自由な発言ができなくなっちゃうと思っていたからです。結局、ネットの意見って美人投票みたいな部分があって「自分が本当に思っていること」と「みんながそう思っていること」の境が曖昧な部分があります。ネットに深く浸かれば浸かるほど自分の意見がみんなの意見にすり替わっちゃうジレンマみたいなのがあるんじゃないでしょうか。でも、画面の向こうに実際にみてくれる人がいるのかわからないネットの社会で「みんな」なんて言葉を使う事自体がおかしいんだけど

このブログはほぼ私的なブログなので、自分の書きたいことを書くためにあります。その意味で、わかったふりして一丁前に政治やニュースの話題を書いていたのはちょっと変なんじゃないかなと思い始めました。自分が過去を見返すためにあるようなものなのだからもっとつまんないことを書いたほうがいいのです。それだとネットの他の人からはウケが悪いんでしょうけど

というわけで、初心に戻ってつまらないことをブログで書いていこうと思います。人生一度きりなんだし、せっかくなら「みんなと同じ」であることを誇るより周りからずれていること――「ガラパゴス」であることを誇りたいです

予想がつかない2024年のアメリカ大統領選の結果について

2024年11月5日にアメリカの大統領選の投票が行われます。今回の候補者として民主党からカマラ・ハリス氏、共和党からドナルド・トランプ氏が選出されています

テレビや新聞では、差別主義者、ドナルド・トランプは国内のマイノリティや移民、女性や若い世代から徹底的に嫌われているというような報道が目立ちます。一方で、ネットでは既存のマスコミの報道は偏ったもので、カマラ・ハリスの勢いは衰えつつあるという論調が多いです

もし、自分がアメリカ国民で投票権があるなら、今回の選挙はトランプさんに投票していたと思います。彼の差別的な発言や高すぎる年齢はマイナスポイントですが、実業家としての経歴や大統領経験の実績は評価できる点です。バイデンさんの4年間で世界情勢は大きく変わったので、一度戦略の見直しをするという意味でも、実質バイデン政権の継承者であるハリスさんより、トランプさんを選んだほうがよいと考えます

しかしながら、ハリスさんを支持する人たちの意見もわかります。バイデン政権は外交は下手っぴでしたが、内政は堅実でした。新型コロナウイルス騒動の終結からポストコロナの世界という難しい時期の舵取りを任されたバイデンさんでしたが、物価の上昇という課題は残ったものの軟着陸を果たすことができたと思っています。今のアメリカの景気は「割といい」ぐらいの感じだと自分は思います。不法移民に関してもバイデン大統領は最終的には方針を柔軟に切り替えて厳しく取り締まる形になりました

なので、ハリスさんがバイデン政権の政策を引き継いでもめちゃくちゃになることはないでしょう。一方でトランプさんが再選されたら、今までの取り組みが一気にひっくり返る恐れがあります。そのため、無駄にリスクを負いたくない人たちにとってはベストではないがベターであるのがハリスさんです

思い返せば2024年の大統領選は常に「接戦」でした。銃撃事件でトランプさん優勢が決定的になったかと思えば、民主党の候補者の交代が巻き起こり、ハリスさんがリードし、ハリスさん優勢になったかと思えば、アドリブの効かなさで失速し……。まるで振り子のようにぶんぶんぶんぶん揺れ動いたのが今回の大統領選です

ネットでは、賭けサイトでトランプさんに賭けている人の割合が多かったりや激戦州での優勢を理由にトランプさんになるだろうという意見が大勢を占めています。正直言うと、自分もそれを信じたくなる気持ちもあるのですが、うーん……

自分は2020年の大統領選挙のときに同じような理由でトランプさんが当選するだろうと思っていて間違ったので、なんとも言えません。民主党寄りの報道を続けるオールドメディアの論調が偏っていそうなこともわかりますが、ネットの意見だって同じぐらい偏っているという当たり前すぎる事実に2020年の時点で気が付きました

例えば、以下のBBCの報道は調査に基づいて中立的な意見を述べているように見えます

www.youtube.com

しかしながら、youtubeのコメント欄にはお決まりのようにこの調査が不当なものであるというコメントが寄せられています

ポイントは(例え歪めたものだったとしても)何らかの調査に基づいて解説を行っているリサーチャーに対して、コメントを残す人たちは何の調査にも基づかず脊髄反射的な反論を行っていることです。「エスタブリッシュメントの情報はすべて嘘だ」「メディアは我々を操作しようとしている」という姿勢が固定化していて、真実を見ようというよりも自分たちが信じたくない情報以外は受け付けないという状態になっている気がします

もちろん、これはトランプさんに不利な情報ばかり報道するオールドメディアにも言えることなのですが、……うーん。だからこそ、今どんな状況になっているのか全くわからないです

「人間が収集して、編集する以上、ニュートラルな報道など存在しない」という基本に立ち返って真実を知りたければ無味乾燥な代わりに誰にも忖度しない統計情報とにらめっこしてくるのが一番いいのでしょう。難しい時代になりました

しかしながら、統計のデータを信用しないという道も存在しています。「隠れトランプ」の存在をほのめかせば簡単に「いやいや、この統計には含まれていない存在がいるんだよ」と反論できてしまいます。実際に2016年の選挙は「隠れトランプ」ないし「隠しトランプ」がいて予想をひっくり返してしまったのだから、一見クソみたいに見える反論でも割と説得力があります

どちらに軍配があがるかがわからないという意味でも不透明な選挙ですが、どちらかが当選した場合に世界がどのように変わるかに関しても不透明な選挙でもあります

「もしトラ」という「もしドラ」をもじった謎の用語が一時期流行りました。「もしトラ」はもし、トランプさんが当選したら「アメリカはこうなる」「世界はこうなる」という予想です

自分の記憶が正しければ、悲喜こもごもな感じだったと思います。「株価が急落して経済がやばい!」と嘆く人もいれば「国内の産業が活性化して、アメリカの経済が回復する!」と訴える人もいた気がします。「円高ドル安になるはずだ」「いやいや、円安が加速するよ」という正反対の意見もありました

ゆえに、トランプさんが当選してアメリカがどうなるのか、世界がどうなるのか、正直よくわからないです

「もしハリ」の意見はあんまり聞きませんが、トランプさん以上によくわかりません。バイデンさんの路線を継ぐだろうということ以外はあまり語られていない気がします。そういう意味ではミステリアスな候補ですね

トランプさんとハリスさんは正反対にいる人物に見えて、政策面の方針では以外に一致しています。対象は微妙に異なれど、「減税」を打ち出しているのは同じで、移民政策も言い方は違えど結果としては「不法移民は厳しく取り締まっていく」方針です。中東問題、対中国に関しても目指すところは一致していて「イスラエル支持」「中国は牽制」です。妊娠中絶問題を大きな争点とするメディアもありますが、トランプさんは「それぞれの州の判断に任せる」と言っているだけでそもそも中絶に否定的かと言われると首をかしげます

そもそも候補者の「資質」に焦点が当てられて政策に関しては雰囲気で語っているような部分も多いです。「選挙前に何を言おうが当選しちゃえばこっちのものだ」と開き直っている感もあります

ともあれ、予想がつかないのでどっちが当選しても「びっくり」です。11月5日に投票のアメリカ大統領選。選挙イヤーとなった2024年を締めくくるメインイベントはどのような結末をたどるのでしょうか

色々考えましたが……やっぱり、わからない!

毀誉褒貶の実際 難しい言葉を使った厭味ったらしい言い回しについて

「毀誉褒貶」という四字熟語をご存知でしょうか

見ているだけで腱鞘炎になりそうなこの熟語は「きよほうへん」と読みます

kotobank.jp

「ほめたり、けなされたりどちらもある」という状態を示すのに使われます。要するに賛否両論ってことですね。同じような意味なら画数の少ない賛否両論のほうがエコですね

「毀誉褒貶」は主に人物評に使われることが多く、「〇〇は毀誉褒貶の激しい人物として知られるが~」とか、「彼に対する評価は毀誉褒貶に相半ばする」という風に使います(やっぱり賛否両論でいいじゃん)。

最近ネット上のインフルエンサーに対する評価として「毀誉褒貶」をよく見ます。ネットで有名な人物は大抵の場合、熱狂的なファンとアンチを両方抱えているので、そういう「複雑な状況」を簡単に言い表すのに都合がいいのでしょう

「ネットで大人気」という言葉を使うとその人のことを推しているように見えてしまうし、「否定的な声を持つ人もいる」と直接的に言うと、悪い印象操作をしているように見えるので中立的な立場をアピールするために「毀誉褒貶」という言葉は便利なのでしょう

(ただし、「毀誉褒貶」という言葉を使うとき、その言葉を使った側は潜在的に「毀誉褒貶」の対象となっている人物に否定的な立場を取っているように見えることが多いのは気のせいでしょうか。食レポでまずいものに出会ってしまった場合「好きな人は好きな味ですね」という文句を使うと悪い印象を与えず、嘘もつかなくていいというハックがありますが、それに似たものを感じます)

「毀誉褒貶」の利点は「人物に対する評価」という最もバッシングの対象となりそうな部分を、難しい言葉を使って有耶無耶にできる点です。人口に膾炙していない四字熟語を並べることによって、文章に権威性を与え、大したことは言っていないのに大したことを言っているように見せることができるのです

先ほど使った「人口に膾炙」するという慣用句も同様ですね。意味は「よく知られている」「よく使われている」という極めて簡単なものですが、「膾炙」という見慣れていない、かつ、意味もよくわからない漢字を並べる事によって「なんかすごいことを言っている感」をアピールできます

kotobank.jp

加えて、「人口」という文句で一般の人々と筆者の間に距離を設けることで「世間一般の人々はよく知ってるみたいだけど(≒俺は世間一般の人々とはちょっと違うよ。ごめんね)」というスネ夫みたいなアピールをすることができます

同じような言葉で「寡聞にして知らない/存じない」という言葉もあります。こっちは「人口に膾炙」とは逆で「筆者が知らなかった」ことを謙遜して言う言葉です

kotobank.jp

純粋に言葉通りの意味を汲むならば「私は世間知らずですから、世間の皆さんが知っているようなことも知りません」という意味です。世間一般の人々を物知り、自分のことを無知だと分けることで後に続く文章の印象を和らげる役割があります

では、「寡聞にして知らない」の後に続く文章がどんなものかと言うと、自分の経験的に「世間の人が知らないような事実」がきます。「寡聞にして知らない」の意味を直球で捉えるならば、「寡聞にして知らなかったが、地球は自転しているらしいのだ」というような一般的な事実が来るのが望まれますが実際の使われ方としては「寡聞にして知らなかったが、シンガポールではチューインガムが違法らしいのだ」というような新事実がやってきます

これが「寡聞にして知らない」の本質で、要するに、筆者が知識を自慢したいけど、誰から「そんなこと知ってるよ」と言われるのも嫌だから「知ってると思うけど……」という予防線を貼ったうえで、知識自慢をする、というのがこの言葉の本当の用法なのです

では、なぜ「知ってると思うけど……」と言わないのか。それは「知っていると思うけど……」より「寡聞にして知らない」という慣用句のほうが難しめでなんかすごそうだからです。恥ずかしいので言葉を難しくしたわけですね

毀誉褒貶、人口に膾炙する、寡聞にして聞かない……これらの難しい言葉の裏に潜んでいるのは筆者が読者に隠したい「後ろめたい」感情であるのです

同じ意味で画数が少ない言い回しと画数が多い言い回しがある場合は、画数が少ない言い回しを使おう! そのほうが、正直な感じになるよ(戒め)。終わりでーす

死刑制度はなぜ無意味なのか 人権・冤罪・海外に逃げ込まずに考える 後半

 

shigorox.net

の続きです。前回は死刑制度を続けていくべきだと考える人達の主な主張に対する反論を述べていきました

後半では、なぜ死刑制度を廃止すべきだと自分が思うのかについてを中心に述べていきます

その前に、余談的ではありますが、最近ネットで見かけるようになった「死刑廃止された国では現場の警察官が射殺を行っている=やっぱり死刑は必要だ」という意見について考えることとします

re-file.com

死刑制度の議論が「法律をどうするか」の議論であることを考えれば、現場での射殺が多い/少ないが死刑制度の是非には何の関係もないことは明らかなのですが、なぜかここを(意図的に?)混同させようとする人たちがいます

警察は職務権限の範囲で現場で他人に強制力を執行することが認められています。例えば市民に危害を加えようとしている現場に遭遇したり、誰かが自分を殺そうと襲いかかってきた場合に、相手を停止させる目的で銃を使うのです

なので、警察官が銃を使う目的は相手を「殺す」ことではなく「止める」ことです。その点においても、「死」を目的とする死刑と現場での射殺が無関係であることがわかります

もし、現場での射殺が死刑制度の是非に関係するとしたら警察官が次のような行為を行えるようになっている社会においてでしょう

ある警察官Aは見廻りの最中に指名手配中の人物を発見します。その人物は多くの人が被害者となった殺人事件の容疑をかけられた人物です。警察官Aは思いました。「こいつはきっと死刑に違いない。私が裁きを下そう!」。警察官Aはホルダーから銃を抜き、道を歩いていた人物を射殺しました

これが許されると思うのなら、確かに「現場での射殺」は死刑の存廃に関係してきます。死刑が廃止されていれば警察官Aは指名手配人物を殺さなかったはずですから

しかし、誰もが思うようにこの話にはおかしな点だらけです。行政機関に属する警察組織の人間が頭の中で勝手に司法判断をしているのがおかしいですし、刑の執行の許可を得ていないのに独断で刑を執行しているのもおかしいです。そもそもその人物が本当に犯人だという根拠は?

仮に「死刑が廃止されたから現場での射殺が増えた」のならばおかしいのは「死刑が廃止されたこと」ではなく、死刑が廃止されたことを理由に許可なく自らの職務の権限を拡大しようとしている警察のほうです。司法権と行政権は分離されているのですから警察は司法判断をすべきではありません

初めて見たときは「変なこといっている人がいるな」ぐらいの温度感で見ていたこの意見ですが、SNSなどでこの意見があたかも正論かのように言う人が散見されるので、嘆かわしいです。こんな論を主張しても、反論しても死刑制度とは何の関係もない煽りあいにしかなりません

さて、本題の死刑制度を廃止すべきだと思う理由について書いていきます

死刑制度廃止論の理由としてよく述べられるのが「犯罪者の人権も尊重すべき」という人権論、「冤罪の可能性を考慮して不可逆的な性質を持つ死を与えるべきではない」という冤罪理論、「先進国では死刑は廃止の方向に進みつつある」という海外論法の3つだと思います。しかし、どれもいまいち納得がいきません

海外で行われていることがすべて正しいのなら、日本独自の法律や慣習はすべて間違っていることになります。犯罪者の人権も尊重すべき、といいますが、死刑に賛成の人は人権思想に反対なわけではありません。殺人を行ったものに対してどこまで人権を認めるかで認識の違いが起きているのです。冤罪に関しては本来的にあってはならないものであり、冤罪の可能性があるから刑の内容を変えてしまうのは間違った有罪判決を認めているようなものです

死刑は「犯罪者に死を与える」という刑罰です。ということは、犯罪者が死ぬことによって何が起きるか、が死刑制度の是非を考える重要な論点になってくるはずです

遺族の感情の回復と答える人もいるでしょう。確かに、犯罪行為を行った人物が重い刑罰に処されれば、大切な人を失った遺族の気持ちは少し楽になると思います。しかし、死刑囚と遺族の気持ちがつながっているわけではないので、「確実に」そうなるとは断言できません。「犯人がどうなろうと、もはやどうでもいい」と開き直ることだって遺族にはできます。犯人に対する憎悪に燃え続けるより、痛ましい事件のことなど忘れて自分の人生のために前を向いて生きるほうがむしろ健全なのかも知れません

犯罪者の死によって確実に起こることがあります

それは「犯罪者の記憶」と「犯罪者の身体」の喪失です

人は死んだ瞬間にその人が生きていた間の記憶のすべてを失います。人間の記憶装置である脳に蓄積されているはずの記憶は、その人に自身によってしか想起させることができません。なので、死が訪れたとき、その記憶は永遠の闇に閉ざされます

もちろん、その人が生きていても他人の記憶を完全に把握するすべはありません。他人の頭の中を解析して、動画や静止画にして記憶を取り出すなんていう技術はまだ存在しないからです

しかしながら、生きてさえいれば断片的にであれその人の記憶の中身を確かめることができます。例えば会話の中でその人の昔に何があったかを知ることができたり、過去の一時点で何を見た/聞いた/感じたのかを尋ねることができます

犯罪者が死んだとき、事件の記憶はなくなります。死刑囚は当然ながら、事件を間近で見て、間近で感じていた人物です。その人物がいなくなったとき、事件の記憶は社会から消えるのです

事件の記憶なんて警察側の調書や裁判記録に残っているはずだ。そのとおりです。しかし、警察側の調書は犯人を有罪にするための証拠集めですし、裁判記録だって弁護側と検察側の主張にそって事件の詳細が語られていくものですから体系的なものだとは言い難いです

そもそも、事件はどの時点から始まっていたのでしょうか。刑事的な観点から言うと事件発生は殺人などの刑法に該当する行為が起きた時点から発生します。ただ、それは「狭義での事件」の発生だと言えるでしょう

犯人はなぜ犯行に至ったのか、また犯人はどのようにして犯罪者に育ってしまったか、を考えてみると事件の発生時点は「狭義の事件」の発生から大きく過去に遡ることになります。過去のトラウマが犯人に社会に対する不信感を抱かせ、犯罪傾向を高めてしまったのかも知れませんし、特定の養育歴が犯罪に大きく関わっていたのかも知れません

その点を踏まえると事件の全貌を捉えるのに調書や裁判記録では不十分であることがわかります。犯人が受け答えできる状態であれば犯人に質問してみるのが事件を知るのにもっとも効率的な方法に違いありません

ここでもまだ、次のような反論が想定されます

1つ目は「事件について聞いても犯人は本当のことを言うかどうかわからない」という反論です

犯人は確実に犯罪の記憶を持っているはずですが、犯罪の記憶をその通りに話すかどうかは犯人次第です。偏見込みでいうなら、犯罪を行うような人物なのだから自分に都合の悪いことは隠そうとするでしょう

それでもなお、犯人に直接問いただすことができることは重要だと考えます。嘘をついていようがいまいが、犯人の言葉は犯人が考えて発した言葉です。その言葉の端々には真実が宿っているはずです。加えて、事件に関して新たな事実がわかったときに、質問する相手がいなければ真偽の判断のしようもありません。「犯人がどのような答えをしたか」という事実自体が貴重な資料となるのです

2つ目の反論は、「死刑執行までに十分すぎるほどの時間があるのだから事件の全貌は解明できるはずだ」という主張です

以下の記事によると、死刑の判決が言い渡されてから実際に死刑が執行されるまでの平均期間は「6年8ヶ月」だそうです

www.asahi.com

(あくまで平均ですが)6年という期間があれば事件について興味を持ったジャーナリストが独自に調査を行って事件の全貌を解明するのに何ら問題はないだろう、と考える人もいると思います

ここで考えてほしいのは、「事件の解明」は何をもって完了するのだろうか、ということです。例えば、入試の問題であれば、事前に想定されていた回答と回答者が導き出した回答が一致すれば問題が解けた、といえる状態になります

それを踏まえると、事件の解明は、犯人側がもっている記憶と記者側が導き出した推理が完全に一致したときに終わるといえます。しかしながら、出題者によって回答が決められているテストの問題とは異なって、事件はそもそも正答が定められていません。上述した通り、犯人の記憶をそのまま取り出すことができないからです。我々はそれを間接的に知ることしかできないために、「確からしい」というところまではたどり着けるものの「本当にその通りだ」という地点までは到達できないのです

であるならば、事件の解明にかかる時間など誰にも決められないといえます。もちろん、本の出版や作品の制作などの事情で解明の作業が区切られることはあるでしょうが、それは制作側の事情であり、事件に関する事実が明らかになったからではありません。真実に到達できないことを知りながらも真実に無限に近づいていこうとする努力が必要となるのです

加えて、時間を定められない根拠の一つとして、新事実がいつ出てくるかわからないというのも挙げられます

全く関係ない事件で恐縮ですが、指名手配されていた桐島聡容疑者が入院先の病院で死亡したという事件がありました

www3.nhk.or.jp

これは何十年も逃亡を続けていた人物が今際の際に自分の本名を明かしたという事例です

同じように死刑判決が下った事件に関連していた人物がなにかのきっかけに真実を話すという事象が起きる可能性が十分にあります。あるいはずっと見つかっていなかったなにかの証拠品が偶然発見されたという事例もありえます。そのときに、犯人がすでに死亡していればそのことを新たに問いただす相手はいなくなってしまいます

ここで言いたいのは、「冤罪の可能性がある場合に~」というわけではありません。結果的にそれが冤罪であればそれはそれで問題なのですが、冤罪であるかないかにかかわらず事件そのものを解明する一つの部品として犯人というのはものすごく重要な役割を担っているのです。そして、事件が社会的に重要なものであればあるほど、事件の全貌を解明することには社会的な意義を持ちます

ここまで聞いて、犯人の記憶の唯一性と保存の意義についてある程度は理解していただけたと思います。しかし、こう思う人もいるでしょう。「犯人の記憶の保存に一定の価値があるのはわかったけど、犯罪者を生かし続けておくほど重要なものなのだろうか」と

死刑によって失われてしまうもう一つの要素「犯人の身体」の意義とともにそれについて解説していきます

死が訪れたとき、人の身体は失われます。もちろん、ゲームのように死んだ瞬間にだんだん透明度が高くなって見えなくなってしまうという形の消失ではありませんが、我々は死んだ肉体と生きた肉体を明確に区別しています。意識、脈拍、呼吸などの現象の有無で性質が異なるからです。生きている状態の体と死んでいる状態の体は別物です

生きている身体の保全で可能になることは何でしょうか?

それは生体情報の収集です。例えば、脳波を図ったり、特定の状況下での身体反応などを調べることができます

犯罪行為は犯罪者が何らかの誤った判断を行ったために起きた行為です。人間の判断は身体に依存するものですから、屁理屈っぽいですが犯罪を行ったのは犯罪者ではなく、犯罪者の身体とも言えます

犯罪者の身体を調べることで、犯罪に関する身体的な原因を解明することが可能になります。法を大きく逸脱した犯罪、重大犯罪の犯人のほうがそうではない人物に比べて身体的な変容は大きい、と推測することは十分に考えられるので、一般人と犯罪者で何が違うのかを解き明かすことができるようになります

これによって何が嬉しいかというと、犯罪心理学や医学的な知見が蓄積されることに加えて、犯罪の予防が可能になるということです

犯罪者の特徴が明らかになれば、犯罪を行いやすい心理状態/身体状態の人物を事前に検知することができ、犯罪を犯す前にその人物を正しい道に戻すことができるようになるかもしれません

犯罪の予防に対して「思想の検閲」や「冤罪の助長」という観点で嫌悪感を抱く人はいるかもしれません。しかし、犯罪傾向のある人物を検知できるようにすることは治安維持のためにも、その人自身のためにも大切なことだと自分は考えます。どのような犯罪者も、適切な機会さえ与えられていれば幸せな人生を歩むことができた人物なのです。彼らの経験は「大きな失敗」という負の意味で社会にとって貴重な価値をもっています。失敗から最大限に学ぶことができれば、次の失敗を防ぐことができます

残念ながら、2つ目の犯罪者の身体の保護の観点は現在の刑務所の運用だと机上の空論のようになっています。犯罪者は明らかに社会的に貴重なリソースなのですが、研究者が自由にアクセスできるようになってはいません。特に死刑囚は、「ただ閉じ込めて死ぬのを待たせるだけ」になっています。懲罰的な意味合いを重視するためだと思われますが、まさしくこれこそ「無意味」です。すでに檻の中に入っている犯罪者を痛めつけるよりも、これから起きる可能性のある犯罪に対して事前の措置を取ることこそ公的な機関が負っている責任なのではないでしょうか。であるならば、犯罪者の研究目的へのアクセスはもっとオープンな形であるべきです(ある意味、それが最も犯罪者を生産的に活用できる手段なのです)

ちなみに、これが自分が死刑制度の反対の理由として人権を重視しない理由の一つでもあります。人権の保護を認めてしまうと犯罪者を研究目的で取り扱うのは「人体実験」とみなされてしまい、研究の阻害になる可能性があります。死刑が下るような凶悪な犯罪を行った人物に対する人権は、大きく制限されるべきだと考えます。何をやってもよいとは思いませんし、単に苦しめるだけの行為が正当化されるとは全く思いませんが、プライバシー権や自己決定権などが無条件に認められるのもどうなのかと思います。事件を起こしてしまった責任の一環として、彼らの身体は公共の利益に資するために活用されるべきでしょう

そもそも犯罪者を死に至らしめることの社会全体のメリットは何があるのでしょうか

死刑と切腹は似ています(というか全く同じものだと思うのです)

切腹は不祥事や敗北など何か自らの名誉を損なうような出来事が起きた場合に自ら刀で腹を切って誠意を示すという自殺方法です。江戸時代までは武士の間で慣習的に行われていたそうです

幕末に起きた堺事件の責任を取ろうと武士たちが切腹をするのを見て、切腹の風習を知らないフランス人がドン引きした、というのはよく知られています。フランス人が臓物を取り出す武士たちを見て不気味に思ったのは、腹を切ることと責任を取ることの関連が全くわからなかったからでしょう。実際、現代を生きる我々の価値観からしてみてもこれは全く意味不明です。お腹を切れば、謝罪したことになるのでしょうか。お腹を切ることが意味するのは、せいぜい「痛そう」ぐらいなものでしょう

同様に、死刑囚が首を吊って死んだとして、それは彼らが何かの責任を果たした証拠になるのでしょうか。死刑囚は最後まで社会を恨んで、自らの生まれを嘆きながら死ぬこともできます。死んだからといって彼らが殺害した人物が生き返るわけでもありません

死刑はただの儀礼なのです。「死ぬことによって責任を果たしたと見なす」という形式上の謝罪に過ぎません。「土下座」にも似ているかも知れません(あれも頭を地につけることには何の意味もないですからね)。儀礼は実行することそのものが本体なのでその儀礼がもたらす結果には無頓着です。社会的なメリットがなくとも儀礼は実行され続けます

犯罪者をそんな「お遊び」につきあわせるぐらいであれば、実利を優先して研究目的で生かしたほうがよほど賢いと思います

加えて、(ちょっと政治思想強めになるので嫌な感じですが)なぜ死刑が中国・北朝鮮・イランなどの専制的な国家で好まれるかについて考察していきます。これが偶然ではありません

死刑というのは権力側のセーフティーネットなのです。警察と検察がタッグを組めば、特定の人物を効率的に葬りさることができる。「死人に口なし」なので、殺した後に権力者側が嘘の情報を発信し続ければ嘘はいつしか真実であるかのようになっていき、この世から事実が消え去ります。それを実際に実行するかどうかにかかわらず、その選択肢が残されているということが権力者側には安心材料の一つとなっているのでしょう。核兵器の発射スイッチのようなものです。実際に使わなくてもあると安心で、交渉のカードにもなるというわけです

権力側がいつ暴走するかなど誰にもわかりません。体制側と市民が対等に渡り合っていくために、死刑という大きな武器を権力者から取り上げるのには意味があるでしょう(自分で書いていて政治思想強めで嫌になります。この意見を反対の主な理由にしたいわけではなく、あくまでこういう主張もできるというだけです)。

疑問に思うのは日本は明らかに専制国家ではないのになぜ死刑制度が残されているのだろうか、ということです

「日本は遅れているから!」と安易な批判しません。これは何の説明にもなっていません(そもそも国と国との比較において「遅れている/進んでいる」って何を基準に判断するのでしょうか)

専制主義国家と日本の社会で共通しているであろうことは社会全体を綺麗な状態で維持しようという秩序意識の高さです。コントロール願望の高さとでも言い換えましょうか。これはもちろん基本的には良いことではありますが、負の側面もあります

例えば、北朝鮮などは海外の取材に対して映してよいものとだめなものを明確にわけています。これは自分たちの社会の良い面を最大限に外に向かって発信してほしいためにそうしていると考えられます。一方で、逆説的に見れば、自分たちの社会の生み出した汚い側面、至らない部分を隠そうとしていると言えます

自分たちの社会で起きた凶悪事件は、当然ながら社会の暗部に属する部分です。直接的な原因は犯人たちの自分勝手な行いでしょうが、事件をたどっていくと根っこには社会制度の歪さや経済格差、差別や偏見などの社会が抱える闇が存在します

対外的に自分たちの社会を綺麗に見せたければ、凶悪事件を追求してもらうのは社会的に都合の悪いことなのです(これは権力者側にとってではなく、世間一般的にバツが悪いことなのです)。近所で凶悪犯罪者が出たら居心地が悪くなりますね。その事件の聞き込みをしている記者がいつまでもうろうろしていたらもっと居心地が悪くなります

その意味で死刑の執行は事件の時効なのです。犯人が死ねば事件の記憶は散逸し、真実を追い求める人も少なくなります。「まぁまぁ事件のことはそのぐらいにしておこうよ」とか「もう追求するのはやめよう」、そんな声が死刑望んでいるのかも知れません。「凶悪事件」という穢れを見なかったことにしようとする社会全体での巨大な隠蔽工作が死刑なのかもしれません

多くのことを述べてきました。やはり自分は死刑に対しては積極的に反対の立場なのだと改めて確信します

前半で述べたように、自分は死刑制度に関しては「いずれなくなる」と楽観的な立場です。犯罪者を単に死に至らしめることに何の意味もないからです。上から目線な言い方で恐縮ですが、いずれ多くの人がこのことに気づくときが来る、と自分は思います。冷静に考えてみると、死刑は無意味だからです

凶悪犯罪に対して公的機関が果たさなければならない責任は2つあると思います

1つは事実を明らかにすることで、もう1つは再びそのようなことをおこならないようにすることです

死刑はその2つの責任のどちらにも有効に機能しません。犯罪者が死ねば真実の追求は有限なものになってしまうし、犯罪者の身体データが消失すれば次の犯罪防止役立つ貴重な資料がなくなってしまいます

「犯罪者の死」というスペクタクルで事件を綺麗に終わらせるのではなく、犯罪者をいつまでも残る不愉快なサンプルとして塀の中で生きながらえさせて事件を無限に追求していくことが「凶悪犯罪の発生」という失敗を最大限に社会に活かす唯一の方法だと自分は思います

以上が自分が死刑制度に反対する理由です

『射精責任』感想 内容は至極真っ当。ただし、結論には物足りなさがある

『射精責任』を読みました。発刊された当時、界隈(どこのだよ)をざわつかせた本で、「望まない妊娠のすべての原因が男性にある」という主張が展開されているセンセーショナルな本です

センセーショナルなのは本の中身だけではなく、外見もそうです

見てください。この表紙。「ヤドクガエルかよ」と思わせるような毒々しい色の表紙です

(参考:アカオビヤドクガエル)

『射精責任』は著者であるガブリエル・ブレアさんが射精に関しての男性の責任を追求していくもので、28の章で構成されています。それぞれの章のタイトルには「男性の生殖能力は女性の50倍」「精子は危険である」「望まない妊娠は、すべて男性に責任がある」など、思わず男性が反発したくなるような主張が採用されています

本の内容は学術的、というよりかは啓発的な内容です。見出しのページに目に留まりやすい文章を大きなフォントで「どどん」と作り込んで、あとからその内容を説明していくというスタイルは自己啓発本によく見られるものです。読みやすさが重視されているのだと思います

この本の想定読者の一人である「男性」にとってこの本を読むインセンティブは限りなく低いので「少しでも障害をなくしてやろう」という編集者の粋な計らいから読みやすさを重視した作りにしたのだと推察します。男性の責任について延々と語っているので、男性にとってはお金を払って自分を被告人にしてもらうような本です

本の中では、女性の避妊より男性の避妊のほうが経済的/身体的に圧倒的にコストが低いこと、避妊をせずに妊娠してしまったときのリスクが男性よりも女性のほうが経済的/身体的に圧倒的に高いことを理由に「男性が主体的に避妊をすべきだ」という結論に至っています。男女の体の違いを知っていればこれは自ずから明らかなことなことなので反論の余地なしですね

目からウロコだったのは「精管結紮(パイプカット)」という避妊方法があること。パイプカットというと男性機能を完全に封殺するものだと思いこんでいましたが、術後に元に戻したければ簡単に元に戻せるものなのだと知りました

kanto-clinic.jp

ただし、本の中でも触れられていますが、いくらパイプカットがリスクの低い避妊方法といえども「より」コストが低いコンドームの方に避妊方法として軍配が上がるのは間違いなさそうです。数秒で、お医者さんの手を煩わせずに避妊ができるコンドームは便利な道具です

本書では「男性は自分が行う射精に責任を持って、望まない妊娠を割けるために避妊を行え」という主張が繰り返し述べられています。この主張を真っ向から否定できる人はほぼいないでしょう。そのための手段として、上述のパイプカットかコンドームの使用を筆者は推奨しています

責任ある行動について会話したり、実践したりすることを通じて、コンドームの使用を一気に当たり前にすることができます。「コンドームはつけるべき?」という質問は、馬鹿らしいことだと誰もが知っています。「シートベルトはすべき?」という質問が馬鹿らしいことと同じです

真っ赤な表紙にセンセーショナルなタイトルで男性を煽りまくっている割には極めて常識的な結論に収まっています。「避妊をちゃんとしよう!」というのは中学校の保健の授業で習うレベルの知識です

だからこそ、物足りなさを感じる結論だと感じました。男性側は「避妊をすべきだ」ということを知っていながら、避妊をせずにセックスして望まない妊娠を女性に押し付けているのですから、「避妊をすべきだ」という啓蒙活動を行っても結果は変わらないのです

要するに「わかっているけど、やめられない」が問題なのです。あるいは、「避妊をすべきだ」という常識が「避妊なしのセックス」の希少価値を高めてしまっていることを問題とすべきなのかもしれません。男性側は女性側の「ゴム付けなくてもいいよ」という発言を無意識に望んでいるふしがあって、その結果として「相手が嫌がらなければ」避妊はしなくてもいいという行動を取るのです。避妊なしのセックスを「自分を認めてくれた」という愛の証しであると感じる男性は少なくないと思います(一方で女性側は男性がちゃんとゴムを付けてくれることに愛情を感じるという人が多いようですから男と女で愛のある性行為に関する認識が逆転しています)

男性が避妊なしのセックスを望んでいることは世の中に氾濫する成人向けのコンテンツを見れば明らかでしょう。それらのコンテンツには「生」や「中」などの言葉がキーワードとしてふんだんに盛り込まれています。自分もアダルトコンテンツを見ますけど、AV男優がコンドームをつけてセックスしているシーンを見た覚えがありません

シートベルトをしていないドライブ動画が投稿されたらSNSで炎上しそうなものなのに、コンドームをつけずにセックスしている動画が投稿されても全く炎上しません。「避妊をすべきだ」という常識がいかに「建前」的なものなのかは考えるまでもなく明らかです

となれば、「コンドームをつけるよう男性側にお願いする」という性善説的な手法ではいつまで経っても問題は解決しません。男性の本音は「つけたくない」なのです(かつ、射精の責任も取りたくない)

最も強制力がありそうなのは「射精」を追跡可能にすることです。誰がいつ、どこで射精をしたかがわかるようになっていれば男性はむやみやたらに射精をすることができません

むろん、ここまで追跡可能にするのは人体の仕組み上難しいです。射精の責任というのは受精が起きたときに受精させた女性とその子供に対しての責任です。なので、妊娠が起きた場合にその受精卵は誰の卵子と誰の精子によるものなのかが確実にわかれば、射精の責任を追求できることになります(誰の卵子によるものなのかは母体がわかれば明白です)

ゆえに、指紋を採取するようにしてすべての男性の精子のデータベースを作成すれば、すべての有効な射精には逃れられない責任が伴うことになります。こうすれば、男性側も無邪気に避妊なしのセックスを楽しめなくなるというわけです

ただ、書いていて思うのは、たとえこれが技術的に可能で賛同を得られたとしても現実のものとなるのは10年、20年単位の未来の話だろうということです。その点において今を生きる女性たちにとってはこの提案は無意味なものであり、この提案を行うことによって射精の責任を明確化したと考えるのはむしろ「無責任」の部類に見えるでしょう。ならば、「コンドームをつけよう」という結論は現時点での最も現実的な解決方法です。実効性に乏しい気はしますが

巻末に付属している齋藤圭介さんの解説の的確さも本書の優れた点の一つです

アメリカにおける妊娠中絶論争の経緯と争点となっている事柄を紹介しながら、本書が出版された背景――2022年にロー対ウェイド判決が覆されたこと――についてまとめています

加えて、日本における妊娠中絶問題についても触れています。読んでいて驚きだったのが、日本の刑法では「中絶」が堕胎罪という刑事罰を伴う罪であるということです

ja.wikipedia.org

あとから作られた母体保護法という法律により堕胎の罪は問われないことが慣例となっているようですが、「日本は中絶に関して寛容だ」は必ずしも正しくないことがこの一点からわかります

長くなってきたので、言いたいことを言って終わりにします

妊娠中絶問題にかかわらず性に関する問題の根底には共通する1つの大きな要因があると思います

それは「性に関する問題は公にすべきではない」とする大きな圧力が社会全体で働いていることです

例えば、私達は日常会話でセックスに関して話しません。誰と、いつ、どんなことをしたのかをべらべらと喋るケースは稀です。言わないのですから、セックス中に何をしたとしても関係者以外にバレることがありません。プライバシー保護の観点からはこれは正しいといえますが、このような風潮が性的悩みの解決の困難さや性犯罪の温床になってしまっています

他人の性癖を明らかにすべきではないという社会的通念も同様です。「性的指向/性的嗜好は究極のプライバシーだ」とよく言われたりしますが、この主張の根っこには「自分の性癖を知られたら周りから非難される」という不信感が存在します

他人の性癖がわからなければ、「自分の性癖が変かどうか」はわからないはずなのですが、なぜか「自分の性癖を晒したら不利になる」と皆が思っています

その結果、性的なロールモデルが不在のままになってしまっていて、何が正しいのかがよくわからなくなっています。参考にできそうなものは保健の教科書か成人向けコンテンツぐらいなものですが、「性行為は取り扱わない」というはどめ規定を勝手に設けて毒にも薬にもならないような内容を教え込む保健の教科書と極端に性欲を煽りまくるコンテンツを量産している週刊誌/AV/エロ漫画の主張は両極端です

「一体全体、何が起きているのかわからない」が社会が抱える「性に関する問題」の根っこだと思います

クイズの問題がわからなければどんなに頭のいい人でも正しい回答を導くことができません。性の問題の解決は最終的には人間の性の実態が見える化されないかぎりは終わらないのだと思います

 

牛角「女性半額キャンペーン」の炎上に覚える違和感 そもそもマーケティングやブランディングって差別的なものでは?

牛角が炎上しています

きっかけは2024/09/02~2024/09/12まで実施予定の焼き肉食べ放題のキャンペーン

https://www.gyukaku.ne.jp/pdf/release_20240830.pdf

(画像はPDFの内容を一部スクリーンショットで保存したものです)

国内有名焼き肉チェーン店である「牛角」を運営している株式会社レインズインターナショナルは「TOKYO GIRLS COLLECTION」への出展を記念してアプリ会員向けに一部の曜日、事前予約者限定で焼き肉食べ放題プランの半額キャンペーンを発表しました

それだけだったら問題はないのですが、問題となったのはその条件。「女性のみ」という部分です

「女性のみ半額で焼き肉が食べられるなんてずるい!」「男性差別だ!」という声がSNSを中心に盛り上がり、お肉を楽しく焼いていただけの牛角がSNSの力で焼き肉にされてしまうという皮肉な展開になりました

この騒動を聞いたとき、自分は「しょうもない炎上事件だな」と思いました。「女性優遇」のキャンペーンであるのは明らかですが男性の食べ放題の値段が不当に釣り上げられているわけではないので、許容範囲内だと思ったからです。たった十数日間だけ焼き肉の値段が下がるキャンペーンに不満を抱く人達の気持ちがよくわかりませんでした

このキャンペーンが「差別的か」と言われれば「差別的な内容を含んでいる」のは間違いないでしょう。プレスリリースによると女性が優遇される理由は牛角が「TOKYO GIRLS COLLECTION」に出展したことと食べ放題の注文量が男性より女性の方が平均して4皿少ないというものです。女性が中心となる有名なイベントに牛角が参加したことと女性客の焼き肉が半額になることに論理的なつながりはありません。これは不合理なので「区別ではなく差別である」と主張することは最もだと思います(一方で、女性の方が注文料が少ないことが統計的にわかっているから安くするという主張に関してはある程度合理性があります)

だけど、牛角を運営している株式会社レインズインターナショナルは税金を原資に運営されている公共機関ではないのだからそのキャンペーンが差別的なものであろうと「経済活動の自由」が優先されるのでは、と思います

世の中には様々な割引のキャンペーンが存在します。卑近な例ですが、最近自宅のポストに「30歳以下の新規会員様は2ヶ月間半額でジムをご利用いただけます」というキャンペーンのチラシが投函されていました。30歳以下と30より上の人間に質的な差異などありません。ジムの運営会社が決めた30というボーダーラインは恣意的なものであり、合理的な根拠はないのだから30以下の年齢とそれを超える年齢の会員で金額を分けるのは「年齢差別」です

このようなことは企業のマーケティング戦略全般に言えます。一般的に企業は営業利益を拡大するために、自社の利益を拡大してくれそうな客層に向けてマーケティング/ブランディングを行います。例えば、自社の製品を買ってくれる人の属性に「30代」「主婦」「女性」という属性を持つ客が多いのであれば、広告に起用するキャストに同じような属性を持つモデルを起用する、などです

その製品を気に入って買っていた「50代」「独身」「男性」のユーザーは、CMのモデルに自分と同じような人物を起用すべきだと主張する権利はあるでしょうか。もちろん、あります。ただし、企業がその提案を受け入れてくれなかったとしてもそれは何ら問題がありません(逆に損をするとわかっていながらすべての人の意見を平等に聞いてしまうと経営陣が株主に対して背任行為をしていると問題となってしまうでしょう)

企業は日々、自社の製品をどのようなお客さんが利用しているのか顧客の情報を収集しています。今現在の「強み」の市場でシェアを拡大したければ、よく利用してくれるユーザーの持つ属性の人々にメリットがあるようなキャンペーンを行います。一方で新たな客層を取り入れたければ自社が今まで獲得できていなかった属性の人々に対してリーチするようなキャンペーンを行うのが定石です。これらの施策はどちらも差別的です。しかし、企業は自社の製品をどのように育てていくかをコントロールする権利を持っているのですから、不当に行われたキャンペーンだとは言えないです

そもそも、すべてのユーザーに「平等」となるようにキャンペーンを行ったところで何の差別化もできないわけですから、何もやっていないのと同じ状態になります

ゆえに、今回の牛角のキャンペーンも目くじらたてるほどじゃないと思います。一方で、このような反論もあります

news.yahoo.co.jp

上の記事では、これまで自分が主張してきた「経済活動の自由」に対する反論が掲載されています。その部分を抜粋すると

「私企業の経済活動の自由」の観点から「男性差別だ!」という声を批判する(3)は一見してもっともらしい。個人的には同意したいところだ。だが営利企業の経済活動の自由であっても、いままでSNSでは、女性が「不快感を抱いた」ということを根拠に「女性差別」「女性蔑視」と騒ぎ立て、話のスケールをいくらでも大きくして炎上させ、企業のキャンペーンや広告宣伝を取り下げさせてきたのだから、今回だけ都合よく例外視するのは筋が通らない。

要するに、これまで「女性の権利を主張してきた活動家の人々(≒フェミニスト)」が同じような活動をしてきたのだから、「男性もそれをやって何が悪いのか」という意見です

このような意見は論理的に倒錯しています。フェミニストがやっていることを「過激だ」と批判しつつ、一方で自分が実行する立場になると批判していた属性の人たちを引き合いに「あいつらもやっているから自分もやっていいはずだろ」と立場を変えます

女性活動家の行為を批判するならば、今回の(主に男性が主導したと思われる)よくわからない圧力のかけ方にも批判するべきでしょう。それか、今回の牛角騒動の主張は最もなのだから、過去に女性活動家が実行してきたいくつものキャンセル騒動も理に適ったものだったと認めるか、どちらかです

続く文章では牛角のキャンペーンを認容している人とポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を推進してきた人が同一であるという憶測を元に(本当か?)、牛角の差別的なキャンペーンを認めるのであればこれまで行ってきたポリコレの活動は何だったのか、と疑問を呈しています

なんだか要領を得ない反論ですが、牛角が行ったような「ちょっぴり差別的」なキャンペーンをポリコレが主張するダイバーシティの中に組み込めば矛盾はなくなるのではないでしょうか。そもそも、この牛角のキャンペーンは適切かどうかを話し合っている段階で、政治的な正しさ側に「牛角のキャンペーン反対」を位置づける仮定の根拠がよくわかりません

最後の批判は、米国のカルフォルニア州やニューヨーク州で司法が下した『性別による価格差は、有害な固定観念を強化する』という判断を元に、グローバル的な視点では日本は遅れている、といういい加減食傷気味の出羽守理論が展開されています

海外の基準がどうであろうと、日本国内の基準をそれに一致させる必要はありませんし、カルフォルニア州やニューヨーク州という特定の地域を「グローバル」と表現する「リベラル中心主義」的な考え方が受け入れられません。こういう人たちにとって欧米諸国以外の地域――アフリカの国々や中東諸国は「世界」の一員ではないのでしょう。自分たちの意見と違うものは「見えない/存在しない/仲間とは認めない」という許容できない部類の差別的な考えが透けて見えます

批判に対する反論からもとに戻って自分の主張に戻ります。単純に「経済活動の自由」という観点から牛角のキャンペーンは擁護できるものだと思います

反対意見の中には「牛角の一見は些細な差別だが、これを認めると、後々もっとひどい差別の温床になる」という意見もありました

これは「滑りやすい坂の議論」と呼ばれる論法を使って恐怖を煽っているだけです。牛角の食べ放題が女性のみ半額になることと男性たちの社会的地位が不当に貶められ、女性から虐げられることの間に必然性があるとは思えません「牛角の半額キャンペーンは認めるが、男性が女性から不当に奪われている権利(親権とか)を取り戻すことには賛成」というポジションに立つことは全然むずかしくないですし、なんら矛盾していません

オリンピックの公平さ問題でも感じたことですが、直近のSNSで起きている炎上問題の根底には「純粋な社会」を望む潔癖主義的な考えがあるのではないでしょうか

shigorox.net

何の偏見もない社会というのは、「判断の存在しない」社会です。「30歳」と聞いたときにそれを若いか年老いているかを判断するとき、必ず一度は何かしらの価値観を経由します。10代の人からしてみれば「老人」かもしれませんが、70代の人からしてみれば「若造」です

「社会の平均値を使えば公平だ」と考えるかもしれませんが、そのとき社会とは何でしょうか? 国、都道府県、それとも世界? どれが正しいのでしょうか。人間とそれ以外の生物の区別はつけたほうがいいでしょうか。生物と無生物のあいだの違いはどうしましょう

一見偏見を含まないで判断できそうなものでも、それが判断である限りは必ず偏見を経由します。「30歳」という情報からは「30歳」という帰結しか生まれず、それをそのまま価値につなげることは不可能だからです

だとすれば、差別が存在したとしてもそれが被差別者に深刻な危害を加えるものでなければ、特定の差別について、それを差別だと認識しながらも許容していくのが現実的な路線だと考えます。郷土愛や恋愛、職業選択や宗教信仰など、人間の考え方は根源的に差別的です

ここで考えなければいけないのは、牛角のキャンペーンで男性のどのような権利が奪われたかということです。それは「牛角の焼き肉の食べ放題を半額で食べる」という権利です

……この権利って経済活動の自由を萎縮させるほど重要な権利なの?

「男性にも半額キャンペーンきてほしい!」と願う男性諸氏はまずは牛角の食べ放題で食べるお皿を4皿減らす運動を広めることから実践してみてはいかがでしょうか

やす子ハムスター説 なぜそこまでして走らせたいのか……

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8/31日現在全国日本テレビ系列で「24時間テレビ」が放映中です。「24時間テレビ」は1978年から続く長寿番組で毎年夏の終わりに生放送を交えながら24時間ぶっ続けで放送されることで知られています

今年のサブタイトルは「愛は地球を救うのか?」。昨年発覚したテレビ局員による寄付金着服事件を受けて、「愛は地球を救う」から疑問形に置き換わり少し謙虚になりました。反省するってそうことじゃないと思うんだけど……

この24時間テレビの目玉の企画が「チャリティーマラソン」です。テレビ局によって選出された芸能人が、番組が放映されている最中に長距離を走り続けるというものです

今年のランナーはお笑い芸人の「やす子」さんです。人気絶頂の芸人さんですし、体力のいる仕事である自衛官の経験のある方ですし、この選出に疑問を感じる人はあまりいないでしょう

しかし、番組放映直前になって問題が起きました。台風10号が日本列島に接近している影響で放映予定日の8/31~9/1に大雨が降ることが予報されているのです

大雨の中のマラソンは走者や関係者に大きな負担を強いるものですから、企画を主催している日本テレビはマラソンを実行するか中止するかの判断を迫られました

結果として、日本テレビは予定通りマラソンを行うことを決断しました。理由は「やすこさんがマラソンを行うことを強く希望している」からだそうです

www.tokyo-sports.co.jp

 台風が接近してもマラソン決行を模索するのは、やす子本人の強い希望のようだ。

 今年の「24時間テレビ」ではこれまでのチャリティー募金だけでなく、「マラソン児童養護施設募金」が開設された。これには、やす子が高校生の時、世話になった児童養護施設を世間により知ってもらいたいとの本人の意向がある。日テレ局員の話。

「やす子さんがこれまでのマラソンランナーと違うのは、福祉への思いがより強いこと。台風が接近しようが走る気満々で、皇居(東京・千代田区)周辺で熱心に練習を重ねてきました。『24時間テレビ』側はその思いをくみ、実施の方向で調整しました」

記事では「やす子さんの希望」でマラソンが行われると書かれていますが、「24時間テレビ」というあまたの人員と予算を使って行われるイベントを実行するテレビ局がお笑い芸人一人の意向でこんなにも大きな企画を行うか行わないかを判断するはずがありません。やす子さんが「マラソンではなく、トライアスロンがいい!」と強い希望を示したらテレビ局は企画を変えたのでしょうか? おそらく変えないでしょう。なぜなら、企画が変われば追加での人員が必要になるからです。人員や予算の権限を握っているのは芸能人側ではなくテレビ局側ですから、出演者がどんなにごねようと、最終的な判断を行うのはテレビ局です。

テレビ局が「OK」しなければ企画の遂行はできないのに、あたかも芸能人が願えば企画を続行できるかのように書かれている上記の記事の内容はテレビ局側が責任を逃れるための言い訳に過ぎないと感じます

やす子さんは「24時間テレビ」のためにトレーニングを積んできたのは確かでしょうし、その努力を無駄にしないためにも「走りたい」と希望するのは当然です。怪我をしているオリンピック選手に「オリンピック出場、辞めちゃう?」と監督が聞いたとして出場を辞退する選手がどれくらいいるでしょうか。加えて、芸能人に関しては一度仕事を拒めば「それ以降の仕事に影響するかもしれない」というテレビ局と出演者側の力関係の差異もあります。本人の意向がどうこうではなく、主催者側が客観的な目線で安全かどうかを判断するべきです

しかし、日本テレビ側も無策ではありませんでした。安全面を配慮して、外で走らせる予定だったチャリティーマラソンのコースを日産スタジアムのトラックに変更しました

TVerを使って「24時間テレビ」を見てみると、確かにスタジアムのトラックをやす子さんが走っています。番組が放映されている間、延々とトラックを回るやす子さん。こんなことをいうと不愉快になる方もいるかもしれないということを承知でいいますが、面白くて笑いました

こんなハムスターみたいなことをさせられているのを見て、視聴者は何を思えばいいのでしょうか。「チャリティーマラソンをする」ということが自己目的化していて、テレビ局員の方々も自分たちが何をやっているのか理解していないような気がします。どうしてスタジアムをぐるぐる走ることが募金につながるのか、意味不明です(そもそも、外で行ったとしてそれは変わりないですが)。テレビ局員たちの自己満足と老人たちの暇つぶしのために走らされる若者を見る会。この世の理不尽を凝縮させたかのような絵面です

「24時間テレビ」が全く無意味だと主張するつもりはありません。昨年、募金の着服事件が発覚したといえども、全額着服されていたわけではありませんから、「24時間テレビ」の「収益」が少なからず福祉団体に配分されているのは事実だと思います。その意味で「24時間テレビ」には社会的な意義があると言えます

しかし、テレビ局側の「実際の思惑」は「チャリティー」を免罪符にして視聴者を巻き込んで大型の企画を実行したいという自己顕示欲にあると感じます。他人が意味もなく頑張る姿を見せて感動を誘うのは「やり方が古い」と思ってしまうのは自分だけではないはずです