の続きです。前回は死刑制度を続けていくべきだと考える人達の主な主張に対する反論を述べていきました
後半では、なぜ死刑制度を廃止すべきだと自分が思うのかについてを中心に述べていきます
その前に、余談的ではありますが、最近ネットで見かけるようになった「死刑廃止された国では現場の警察官が射殺を行っている=やっぱり死刑は必要だ」という意見について考えることとします
死刑制度の議論が「法律をどうするか」の議論であることを考えれば、現場での射殺が多い/少ないが死刑制度の是非には何の関係もないことは明らかなのですが、なぜかここを(意図的に?)混同させようとする人たちがいます
警察は職務権限の範囲で現場で他人に強制力を執行することが認められています。例えば市民に危害を加えようとしている現場に遭遇したり、誰かが自分を殺そうと襲いかかってきた場合に、相手を停止させる目的で銃を使うのです
なので、警察官が銃を使う目的は相手を「殺す」ことではなく「止める」ことです。その点においても、「死」を目的とする死刑と現場での射殺が無関係であることがわかります
もし、現場での射殺が死刑制度の是非に関係するとしたら警察官が次のような行為を行えるようになっている社会においてでしょう
ある警察官Aは見廻りの最中に指名手配中の人物を発見します。その人物は多くの人が被害者となった殺人事件の容疑をかけられた人物です。警察官Aは思いました。「こいつはきっと死刑に違いない。私が裁きを下そう!」。警察官Aはホルダーから銃を抜き、道を歩いていた人物を射殺しました
これが許されると思うのなら、確かに「現場での射殺」は死刑の存廃に関係してきます。死刑が廃止されていれば警察官Aは指名手配人物を殺さなかったはずですから
しかし、誰もが思うようにこの話にはおかしな点だらけです。行政機関に属する警察組織の人間が頭の中で勝手に司法判断をしているのがおかしいですし、刑の執行の許可を得ていないのに独断で刑を執行しているのもおかしいです。そもそもその人物が本当に犯人だという根拠は?
仮に「死刑が廃止されたから現場での射殺が増えた」のならばおかしいのは「死刑が廃止されたこと」ではなく、死刑が廃止されたことを理由に許可なく自らの職務の権限を拡大しようとしている警察のほうです。司法権と行政権は分離されているのですから警察は司法判断をすべきではありません
初めて見たときは「変なこといっている人がいるな」ぐらいの温度感で見ていたこの意見ですが、SNSなどでこの意見があたかも正論かのように言う人が散見されるので、嘆かわしいです。こんな論を主張しても、反論しても死刑制度とは何の関係もない煽りあいにしかなりません
さて、本題の死刑制度を廃止すべきだと思う理由について書いていきます
死刑制度廃止論の理由としてよく述べられるのが「犯罪者の人権も尊重すべき」という人権論、「冤罪の可能性を考慮して不可逆的な性質を持つ死を与えるべきではない」という冤罪理論、「先進国では死刑は廃止の方向に進みつつある」という海外論法の3つだと思います。しかし、どれもいまいち納得がいきません
海外で行われていることがすべて正しいのなら、日本独自の法律や慣習はすべて間違っていることになります。犯罪者の人権も尊重すべき、といいますが、死刑に賛成の人は人権思想に反対なわけではありません。殺人を行ったものに対してどこまで人権を認めるかで認識の違いが起きているのです。冤罪に関しては本来的にあってはならないものであり、冤罪の可能性があるから刑の内容を変えてしまうのは間違った有罪判決を認めているようなものです
死刑は「犯罪者に死を与える」という刑罰です。ということは、犯罪者が死ぬことによって何が起きるか、が死刑制度の是非を考える重要な論点になってくるはずです
遺族の感情の回復と答える人もいるでしょう。確かに、犯罪行為を行った人物が重い刑罰に処されれば、大切な人を失った遺族の気持ちは少し楽になると思います。しかし、死刑囚と遺族の気持ちがつながっているわけではないので、「確実に」そうなるとは断言できません。「犯人がどうなろうと、もはやどうでもいい」と開き直ることだって遺族にはできます。犯人に対する憎悪に燃え続けるより、痛ましい事件のことなど忘れて自分の人生のために前を向いて生きるほうがむしろ健全なのかも知れません
犯罪者の死によって確実に起こることがあります
それは「犯罪者の記憶」と「犯罪者の身体」の喪失です
人は死んだ瞬間にその人が生きていた間の記憶のすべてを失います。人間の記憶装置である脳に蓄積されているはずの記憶は、その人に自身によってしか想起させることができません。なので、死が訪れたとき、その記憶は永遠の闇に閉ざされます
もちろん、その人が生きていても他人の記憶を完全に把握するすべはありません。他人の頭の中を解析して、動画や静止画にして記憶を取り出すなんていう技術はまだ存在しないからです
しかしながら、生きてさえいれば断片的にであれその人の記憶の中身を確かめることができます。例えば会話の中でその人の昔に何があったかを知ることができたり、過去の一時点で何を見た/聞いた/感じたのかを尋ねることができます
犯罪者が死んだとき、事件の記憶はなくなります。死刑囚は当然ながら、事件を間近で見て、間近で感じていた人物です。その人物がいなくなったとき、事件の記憶は社会から消えるのです
事件の記憶なんて警察側の調書や裁判記録に残っているはずだ。そのとおりです。しかし、警察側の調書は犯人を有罪にするための証拠集めですし、裁判記録だって弁護側と検察側の主張にそって事件の詳細が語られていくものですから体系的なものだとは言い難いです
そもそも、事件はどの時点から始まっていたのでしょうか。刑事的な観点から言うと事件発生は殺人などの刑法に該当する行為が起きた時点から発生します。ただ、それは「狭義での事件」の発生だと言えるでしょう
犯人はなぜ犯行に至ったのか、また犯人はどのようにして犯罪者に育ってしまったか、を考えてみると事件の発生時点は「狭義の事件」の発生から大きく過去に遡ることになります。過去のトラウマが犯人に社会に対する不信感を抱かせ、犯罪傾向を高めてしまったのかも知れませんし、特定の養育歴が犯罪に大きく関わっていたのかも知れません
その点を踏まえると事件の全貌を捉えるのに調書や裁判記録では不十分であることがわかります。犯人が受け答えできる状態であれば犯人に質問してみるのが事件を知るのにもっとも効率的な方法に違いありません
ここでもまだ、次のような反論が想定されます
1つ目は「事件について聞いても犯人は本当のことを言うかどうかわからない」という反論です
犯人は確実に犯罪の記憶を持っているはずですが、犯罪の記憶をその通りに話すかどうかは犯人次第です。偏見込みでいうなら、犯罪を行うような人物なのだから自分に都合の悪いことは隠そうとするでしょう
それでもなお、犯人に直接問いただすことができることは重要だと考えます。嘘をついていようがいまいが、犯人の言葉は犯人が考えて発した言葉です。その言葉の端々には真実が宿っているはずです。加えて、事件に関して新たな事実がわかったときに、質問する相手がいなければ真偽の判断のしようもありません。「犯人がどのような答えをしたか」という事実自体が貴重な資料となるのです
2つ目の反論は、「死刑執行までに十分すぎるほどの時間があるのだから事件の全貌は解明できるはずだ」という主張です
以下の記事によると、死刑の判決が言い渡されてから実際に死刑が執行されるまでの平均期間は「6年8ヶ月」だそうです
(あくまで平均ですが)6年という期間があれば事件について興味を持ったジャーナリストが独自に調査を行って事件の全貌を解明するのに何ら問題はないだろう、と考える人もいると思います
ここで考えてほしいのは、「事件の解明」は何をもって完了するのだろうか、ということです。例えば、入試の問題であれば、事前に想定されていた回答と回答者が導き出した回答が一致すれば問題が解けた、といえる状態になります
それを踏まえると、事件の解明は、犯人側がもっている記憶と記者側が導き出した推理が完全に一致したときに終わるといえます。しかしながら、出題者によって回答が決められているテストの問題とは異なって、事件はそもそも正答が定められていません。上述した通り、犯人の記憶をそのまま取り出すことができないからです。我々はそれを間接的に知ることしかできないために、「確からしい」というところまではたどり着けるものの「本当にその通りだ」という地点までは到達できないのです
であるならば、事件の解明にかかる時間など誰にも決められないといえます。もちろん、本の出版や作品の制作などの事情で解明の作業が区切られることはあるでしょうが、それは制作側の事情であり、事件に関する事実が明らかになったからではありません。真実に到達できないことを知りながらも真実に無限に近づいていこうとする努力が必要となるのです
加えて、時間を定められない根拠の一つとして、新事実がいつ出てくるかわからないというのも挙げられます
全く関係ない事件で恐縮ですが、指名手配されていた桐島聡容疑者が入院先の病院で死亡したという事件がありました
これは何十年も逃亡を続けていた人物が今際の際に自分の本名を明かしたという事例です
同じように死刑判決が下った事件に関連していた人物がなにかのきっかけに真実を話すという事象が起きる可能性が十分にあります。あるいはずっと見つかっていなかったなにかの証拠品が偶然発見されたという事例もありえます。そのときに、犯人がすでに死亡していればそのことを新たに問いただす相手はいなくなってしまいます
ここで言いたいのは、「冤罪の可能性がある場合に~」というわけではありません。結果的にそれが冤罪であればそれはそれで問題なのですが、冤罪であるかないかにかかわらず事件そのものを解明する一つの部品として犯人というのはものすごく重要な役割を担っているのです。そして、事件が社会的に重要なものであればあるほど、事件の全貌を解明することには社会的な意義を持ちます
ここまで聞いて、犯人の記憶の唯一性と保存の意義についてある程度は理解していただけたと思います。しかし、こう思う人もいるでしょう。「犯人の記憶の保存に一定の価値があるのはわかったけど、犯罪者を生かし続けておくほど重要なものなのだろうか」と
死刑によって失われてしまうもう一つの要素「犯人の身体」の意義とともにそれについて解説していきます
死が訪れたとき、人の身体は失われます。もちろん、ゲームのように死んだ瞬間にだんだん透明度が高くなって見えなくなってしまうという形の消失ではありませんが、我々は死んだ肉体と生きた肉体を明確に区別しています。意識、脈拍、呼吸などの現象の有無で性質が異なるからです。生きている状態の体と死んでいる状態の体は別物です
生きている身体の保全で可能になることは何でしょうか?
それは生体情報の収集です。例えば、脳波を図ったり、特定の状況下での身体反応などを調べることができます
犯罪行為は犯罪者が何らかの誤った判断を行ったために起きた行為です。人間の判断は身体に依存するものですから、屁理屈っぽいですが犯罪を行ったのは犯罪者ではなく、犯罪者の身体とも言えます
犯罪者の身体を調べることで、犯罪に関する身体的な原因を解明することが可能になります。法を大きく逸脱した犯罪、重大犯罪の犯人のほうがそうではない人物に比べて身体的な変容は大きい、と推測することは十分に考えられるので、一般人と犯罪者で何が違うのかを解き明かすことができるようになります
これによって何が嬉しいかというと、犯罪心理学や医学的な知見が蓄積されることに加えて、犯罪の予防が可能になるということです
犯罪者の特徴が明らかになれば、犯罪を行いやすい心理状態/身体状態の人物を事前に検知することができ、犯罪を犯す前にその人物を正しい道に戻すことができるようになるかもしれません
犯罪の予防に対して「思想の検閲」や「冤罪の助長」という観点で嫌悪感を抱く人はいるかもしれません。しかし、犯罪傾向のある人物を検知できるようにすることは治安維持のためにも、その人自身のためにも大切なことだと自分は考えます。どのような犯罪者も、適切な機会さえ与えられていれば幸せな人生を歩むことができた人物なのです。彼らの経験は「大きな失敗」という負の意味で社会にとって貴重な価値をもっています。失敗から最大限に学ぶことができれば、次の失敗を防ぐことができます
残念ながら、2つ目の犯罪者の身体の保護の観点は現在の刑務所の運用だと机上の空論のようになっています。犯罪者は明らかに社会的に貴重なリソースなのですが、研究者が自由にアクセスできるようになってはいません。特に死刑囚は、「ただ閉じ込めて死ぬのを待たせるだけ」になっています。懲罰的な意味合いを重視するためだと思われますが、まさしくこれこそ「無意味」です。すでに檻の中に入っている犯罪者を痛めつけるよりも、これから起きる可能性のある犯罪に対して事前の措置を取ることこそ公的な機関が負っている責任なのではないでしょうか。であるならば、犯罪者の研究目的へのアクセスはもっとオープンな形であるべきです(ある意味、それが最も犯罪者を生産的に活用できる手段なのです)
ちなみに、これが自分が死刑制度の反対の理由として人権を重視しない理由の一つでもあります。人権の保護を認めてしまうと犯罪者を研究目的で取り扱うのは「人体実験」とみなされてしまい、研究の阻害になる可能性があります。死刑が下るような凶悪な犯罪を行った人物に対する人権は、大きく制限されるべきだと考えます。何をやってもよいとは思いませんし、単に苦しめるだけの行為が正当化されるとは全く思いませんが、プライバシー権や自己決定権などが無条件に認められるのもどうなのかと思います。事件を起こしてしまった責任の一環として、彼らの身体は公共の利益に資するために活用されるべきでしょう
そもそも犯罪者を死に至らしめることの社会全体のメリットは何があるのでしょうか
死刑と切腹は似ています(というか全く同じものだと思うのです)
切腹は不祥事や敗北など何か自らの名誉を損なうような出来事が起きた場合に自ら刀で腹を切って誠意を示すという自殺方法です。江戸時代までは武士の間で慣習的に行われていたそうです
幕末に起きた堺事件の責任を取ろうと武士たちが切腹をするのを見て、切腹の風習を知らないフランス人がドン引きした、というのはよく知られています。フランス人が臓物を取り出す武士たちを見て不気味に思ったのは、腹を切ることと責任を取ることの関連が全くわからなかったからでしょう。実際、現代を生きる我々の価値観からしてみてもこれは全く意味不明です。お腹を切れば、謝罪したことになるのでしょうか。お腹を切ることが意味するのは、せいぜい「痛そう」ぐらいなものでしょう
同様に、死刑囚が首を吊って死んだとして、それは彼らが何かの責任を果たした証拠になるのでしょうか。死刑囚は最後まで社会を恨んで、自らの生まれを嘆きながら死ぬこともできます。死んだからといって彼らが殺害した人物が生き返るわけでもありません
死刑はただの儀礼なのです。「死ぬことによって責任を果たしたと見なす」という形式上の謝罪に過ぎません。「土下座」にも似ているかも知れません(あれも頭を地につけることには何の意味もないですからね)。儀礼は実行することそのものが本体なのでその儀礼がもたらす結果には無頓着です。社会的なメリットがなくとも儀礼は実行され続けます
犯罪者をそんな「お遊び」につきあわせるぐらいであれば、実利を優先して研究目的で生かしたほうがよほど賢いと思います
加えて、(ちょっと政治思想強めになるので嫌な感じですが)なぜ死刑が中国・北朝鮮・イランなどの専制的な国家で好まれるかについて考察していきます。これが偶然ではありません
死刑というのは権力側のセーフティーネットなのです。警察と検察がタッグを組めば、特定の人物を効率的に葬りさることができる。「死人に口なし」なので、殺した後に権力者側が嘘の情報を発信し続ければ嘘はいつしか真実であるかのようになっていき、この世から事実が消え去ります。それを実際に実行するかどうかにかかわらず、その選択肢が残されているということが権力者側には安心材料の一つとなっているのでしょう。核兵器の発射スイッチのようなものです。実際に使わなくてもあると安心で、交渉のカードにもなるというわけです
権力側がいつ暴走するかなど誰にもわかりません。体制側と市民が対等に渡り合っていくために、死刑という大きな武器を権力者から取り上げるのには意味があるでしょう(自分で書いていて政治思想強めで嫌になります。この意見を反対の主な理由にしたいわけではなく、あくまでこういう主張もできるというだけです)。
疑問に思うのは日本は明らかに専制国家ではないのになぜ死刑制度が残されているのだろうか、ということです
「日本は遅れているから!」と安易な批判しません。これは何の説明にもなっていません(そもそも国と国との比較において「遅れている/進んでいる」って何を基準に判断するのでしょうか)
専制主義国家と日本の社会で共通しているであろうことは社会全体を綺麗な状態で維持しようという秩序意識の高さです。コントロール願望の高さとでも言い換えましょうか。これはもちろん基本的には良いことではありますが、負の側面もあります
例えば、北朝鮮などは海外の取材に対して映してよいものとだめなものを明確にわけています。これは自分たちの社会の良い面を最大限に外に向かって発信してほしいためにそうしていると考えられます。一方で、逆説的に見れば、自分たちの社会の生み出した汚い側面、至らない部分を隠そうとしていると言えます
自分たちの社会で起きた凶悪事件は、当然ながら社会の暗部に属する部分です。直接的な原因は犯人たちの自分勝手な行いでしょうが、事件をたどっていくと根っこには社会制度の歪さや経済格差、差別や偏見などの社会が抱える闇が存在します
対外的に自分たちの社会を綺麗に見せたければ、凶悪事件を追求してもらうのは社会的に都合の悪いことなのです(これは権力者側にとってではなく、世間一般的にバツが悪いことなのです)。近所で凶悪犯罪者が出たら居心地が悪くなりますね。その事件の聞き込みをしている記者がいつまでもうろうろしていたらもっと居心地が悪くなります
その意味で死刑の執行は事件の時効なのです。犯人が死ねば事件の記憶は散逸し、真実を追い求める人も少なくなります。「まぁまぁ事件のことはそのぐらいにしておこうよ」とか「もう追求するのはやめよう」、そんな声が死刑望んでいるのかも知れません。「凶悪事件」という穢れを見なかったことにしようとする社会全体での巨大な隠蔽工作が死刑なのかもしれません
多くのことを述べてきました。やはり自分は死刑に対しては積極的に反対の立場なのだと改めて確信します
前半で述べたように、自分は死刑制度に関しては「いずれなくなる」と楽観的な立場です。犯罪者を単に死に至らしめることに何の意味もないからです。上から目線な言い方で恐縮ですが、いずれ多くの人がこのことに気づくときが来る、と自分は思います。冷静に考えてみると、死刑は無意味だからです
凶悪犯罪に対して公的機関が果たさなければならない責任は2つあると思います
1つは事実を明らかにすることで、もう1つは再びそのようなことをおこならないようにすることです
死刑はその2つの責任のどちらにも有効に機能しません。犯罪者が死ねば真実の追求は有限なものになってしまうし、犯罪者の身体データが消失すれば次の犯罪防止役立つ貴重な資料がなくなってしまいます
「犯罪者の死」というスペクタクルで事件を綺麗に終わらせるのではなく、犯罪者をいつまでも残る不愉快なサンプルとして塀の中で生きながらえさせて事件を無限に追求していくことが「凶悪犯罪の発生」という失敗を最大限に社会に活かす唯一の方法だと自分は思います
以上が自分が死刑制度に反対する理由です