2024年パリオリンピックが開催中です。スポーツにあまり興味ない自分としてはSNSで「無課金おじさん」と呼ばれている射撃競技で銀メダルを取ったトルコの選手の画像が今のところ一番のニュースでした
興味はないといえどもニュース記事を目にすることが多く、「△△で〇〇選手がメダルを獲った!」とか「〇〇選手が惜敗!」などのニュースが飛び交っています
そんな五輪のニュースで今回目立っているのが「不正」に関する記事です。「柔道で誤審と思われる判定があった」や「バスケで疑惑のファウルがあった」などなど「こんなのスポーツとして公平じゃない! おかしい!」という類の記事が今回の五輪は多いように感じます。スポーツに公平さを求める人が多くなったということでしょうか
女子ボクシング66キロ級の試合では「性別」に関する公平さに関して考えさせられるような事案が発生しました
過去に性別テストで不合格になった経験を持つアルジェリアの選手イマネ・ヘリフさんとイタリアのアンジェラ・カリニさんの試合でカリニさんが身の危険を感じ試合開始後46秒で棄権したという事件です
この事件では勝者であるヘリフさんの性別が「本当に女性と言えるのかどうか」が議論となっています
前述の通り、ヘリフさんは性別テストで不合格になった過去があります。彼女は性分化疾患の患者であり、他の女性より男性的な特徴を多く持っています。過去の性別テストでは血中のテストステロン濃度が基準より高いことが決め手になり失格となりました
女性のみが出場できる競技で「男性に近い」身体的特徴を持った人物が出場することが可能であれば相対的にその人物は有利になります。なので、ヘリフさんのような「男性に近い」人物は女性の競技に出場すべきではないという意見がちらほらと上がっています
自分はヘリフさんをリングに挙げたIOCの判断を支持します。今回のパリオリンピックでも性別テストが行われたはずですが、リングに上っているということは出場資格の基準を満たしたということでしょう。運営団体が「女性」と見なした人物を外野が「女性じゃない」ということはおかしなことだと思います。検査を行った当局と違って外野の人たちはヘリフさんに関する身体検査のデータも持っていなければ、彼女の経歴についてもほとんど知らない人たちばかりなのです
そんな人達が「女性じゃない」と叫んでいるのは単に「見た目が男っぽいから」という差別的な理由でいちゃもんをつけているにすぎないと感じます
ヘリフさんを批判する人の中には(IOCの判断はともかくとして)「女性だけ」で行う競技に「男性みたいな女性」が交じるのは競技の公平さを損なう、と主張する人もいます
もっともらしい意見ですが、そもそも「女性」と「男性」は完璧に分かれているわけではありません。性的自認が身体的特徴と異なる人もいますし、性的指向が異性ではなく同性に向いている人もいます。男っぽい女の子もいれば女の子っぽい男の子だっています。女性の競技では「最も女性らしい」女性が活躍すべきだという意見なのでしょうか。そうであれば、オリンピック競技の前にミスコンを開催して優勝した人の中から選手を決めたらいいのではないでしょうか
この手の議論を行いたがる人は、メダルを獲得するために性別を転換して女子競技の方に不正に参加しようとする「チーター」とヘリフさんの事例を混同しようとしています。前者の人たち(不正に性別を偽ろうとする人たち)は排除されるべきですが、生まれもった特性で女性と男性の区別が難しい人は排除されるべきではないでしょう。大会の運営者が決めた基準を満たしているとなればなおさらです
そもそも、対戦相手のカリニさんもヘリフさんの性別に文句を言っているわけではありません。ヘリフさんのパンチが強く、身体的ダメージを受けそうだったために自ら敗北を認めたという形のようです
1日の試合でヘリフと対戦したイタリアのアンジェラ・カリニは棄権した後、相手との握手もしなかった。試合後、涙にまみれて報道陣の前に姿を現したカリニは「心が壊れた。これほど強いパンチは受けたことがなかった」と説明。鼻に激痛が走り、「健康のためにやめることにした」と理由を明かした。一方、ヘリフの出場の是非については「正しいとか間違っているとか言う立場にない」と評価を避け、「彼女には最後まで進んでほしい」と語った。
であるならば、なんにも関係ない人たちが不正があったかのように主張し、他人の性別について「こいつは女だ」「こいつは男だ」と決めつけることはことさら無意味に感じます
オリンピックはまだ終わっていませんが、これまでの日程おけるいくつもの報道を見てスポーツにおける公平さとは何なのかと感じます
誤審っぽい判断や疑惑の判定があったあとに相手の選手、チームに対してSNSの誹謗中傷攻撃を行う人達が現れていますが、そうした人たちの中には歴とした「公平さ」があるのでしょう。しかし、世の中が完全な公平ではない以上、スポーツだって厳密に考えれば公平ではないのです
例えば、身長の高さが有利/不利に大きく関係しているバスケットボールで身長2mを超える選手がぞろぞろいるチームとそうでないチームが戦わなければいけないのは不公平です。本当に公平な試合にするとするならばお互いのチームの選手の身長を合わせるようにするとか、身長が低い選手が多い場合、事前に得点が入っているようにすべきでしょう。しかし、これらの意見が支持されることはありません。この理由について説明できる人はほとんどおらず、多くの人はこう言うでしょう。「バスケはそういうスポーツだから」
国ごとにしか選手が出場できないというオリンピックの出場資格にも問題があるでしょう。どんなに強力な選手がたくさんいる国でも国ごとに代表選手になれる数は決まっています。他の国の代表選手より遥かに実力はあるのに自国に強力な選手が多数いるために出場できなかった選手からしてみればこれは不公平です。なぜオリンピックが国ごとに出場資格が分かれているのか、これに合理的な理由はほとんどありません。「今までがそうだったからそう」なのです
「完全な公平」を知るものは誰もいませんし、もしそれが実現できたとしてもそれは何の差異もない"予定調和"のつまらないコンテンツになってしまいます。公平さを過度に求めるのは、試合の結果を必要以上に重視する視聴者の姿勢に起因するものだと思います
重要なのは結果よりも過程、そういう意味では試合の結果以上に単に選手が銃を構えている姿がかっこいいことが話題になった射撃競技がアマチュアの祭典であるオリンピックの本来の楽しみ方に近いと言えそうです