死刑制度はなぜ無意味なのか 人権・冤罪・海外に逃げ込まずに考える 前半

死刑制度の存置に関する記事が注目を浴びています

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共同通信による記事では死刑判決が下された事件(闇サイト殺人事件)の遺族である磯谷富美子さんの主張を導入として、死刑制度の廃止に関する内外からの意見が列挙されています

この記事の良いところは、「死刑反対と軽々しく口に出してほしくない」という遺族の意見を最初に提示しているところです。一昔前に見たタイプの死刑廃止論の記事は、死刑制度の存置派の意見に向き合わずに自分の述べたいことを一方的に述べるというスタイルの記事が多く、「上から目線」なものが多かった印象です

日本では死刑制度を続けていくべきだという意見が圧倒的多数です

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であるならば、死刑を廃止しようという声よりも死刑を残そうという記事の割合が多いほうが自然なのです

遺族の声が掲載されていることは評価したい点ですが、肝心の死刑制度に反対する人々の意見に関しては疑問が残ります

特に、後半の海外からの意見はひどいです。英国の活動団体「死刑プロジェクト」のソール・レーフロインド氏の「日本は世論を理由に死刑を続けるべきではありません」という意見は「民主主義は多数決主義ではない」という注釈をつけたとしても「本当にこんなこと言ったのだろうか?」と疑いたくなるようなものです。「俺達と価値観を合わせないと村八分にするぞ」という国際的な権力の横暴そのものであり、説得力の欠片もありません

自分はずいぶん昔に「死刑廃止論者のうんこな主張」と題して、死刑廃止論の理由のうち、「人権」「冤罪」「海外」(あと「更生可能性」)を掲げるのはおかしいんじゃないかという文章を書きました

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共同通信の記事で掲載されている廃止論者の主張は見事にこれらの「うんこな」内容になっており、廃止論者の意見を読んでいて古臭さを感じました

自分は死刑制度は廃止すべきだという意見を持っている人間です。海外がやっているから、という安易な理由で死刑制度が廃止される形になるのは嫌ですが、長期的に見れば日本の死刑制度も中国・イラン・北朝鮮の死刑制度も自然と廃止になると予測しています。言い換えると、そのような「楽観的」な視点に立っているからこそ、声高に「死刑反対!」を主張する必要もないな、と思うのです

死刑存置派の主張は「遺族の感情」や「犯罪の抑止」「死刑囚を収監しつづけるコスト」の3つが主であると自分は考えていますが、これらの3つの理由は突き詰めていくと他の制度と矛盾していたり、根拠が曖昧だったりします。死刑存置派の本音は「昔から重大犯罪を行った罪人は死刑にされているし、それで特に問題も起きてないから変える必要がない」という意見なのではないかと自分はニラんでいます。関わりたくもない死刑囚のためにわざわざ頭を使うのは癪だ、と思う気持ちはわかります

この記事では自分の考えを整理するためにも人権・冤罪・海外に逃げ込まずに死刑廃止論を考えていきます

まず、死刑存置派の主な根拠としてよく述べられる3つの主張に関する反論から始めましょう。上で一回述べているので繰り返しになりますが以下の3つになります。

  1. 被害者(≒遺族)が死刑を望んでいるため、被害者遺族の救済のために死刑は必要だ
  2. 死を伴う刑罰が存在/運用されていることが犯罪に対する抑止力になる
  3. 死刑がなければ受刑者をずっと刑務所の中で生かせ続けなければならないので、お金や人手必要だ。死刑はそれらのコストを軽減することができる

説得力の高さ順に並べるならば「2>1>>>>>>3」の順だと思います。加えて、最近見かけるようになった海外では犯人が現場で射殺されることが多い(?)ことを前提として、「死刑が廃止された国でも実質死刑が行われているじゃないか=やっぱり死刑は必要だ!」という意見もあります。明確に「うんこな議論」に属する論説だと自分は思っていますが一応これについても考えてみます

被害者(≒遺族)が死刑を望んでいるため、被害者遺族の救済のために死刑は必要だ

冷静に考えると説得力はそんなにないはずなのですが、「厄介」なのがこの被害者遺族に関する主張です。この主張に反論するともれなく「思いやりにかけた人間」とか「サイコパス」とか言われます

この主張のおかしな部分を端的に言い表すならば、「自己矛盾」です。この主張は突き詰めていくと死刑を肯定する主張にはなりません

遺族の感情を重視するならば、当然、刑罰の内容は遺族が決められるほうがよいでしょう。「失われた家族と同じ苦しみを味わわせてやる!」と遺族が願っているならば、被害者が殺されたのと全く同じ手法で犯罪者を殺すことが遺族に対する遺族に対する救済手段となりえます

しかしながら、刑法に定められている死刑の執行方法は被害者遺族が定めたものではありません。遺族が被害者の無念を晴らすためにどんなに重い刑罰を望もうが、「裁判を経たあと、刑務所に一定期間収容されて絞首によって死刑執行」という一連のプロセスが変わることはありません

であるならば、「被害者感情を満たすべきだ」という主張と「死刑制度」は結びつくどころか、むしろ、対立してしまうのです。「遺族の感情」を死刑制度存置の理由とするならば、なぜ遺族の預かり知らぬところで制定された刑法に遺族が縛られなければならないかを考えなければなりません

被害者感情を重視すれば、その行き着く先は「私刑」にしかなりません。遺族が自ら考えた刑罰を自らの手で下せることが一番望ましいはずだからです(この場合、遺族には自分の都合で犯罪者を赦すことも認められるはずです)

感情によって裁きが下されるならば、「人間の感情は時間とともに薄れてしまう」という経験則を逆手に取って判決が下されるまで時間稼ぎをすれば犯罪者の罪はどんどん軽くなっていくはずです。あるいは、犯罪者がお金をたんまりと用意して被害者すべてを買収すれば、処罰感情そのものが消えるわけですから有罪なのに刑罰はなしという奇妙な状態が生まれます。どんな形であれ「誰かの感情を満たす」ために刑罰を行うことは公平さや公正さを重視する法律の精神と齟齬をきたしてしまうのです

このような反論に対して「不自由な2択を迫っているだけだ」と感じる人もいると思います。「確かに死刑は被害者の感情を最も満たす理想的な制度ではないが、死刑がないよりかはあったほうが被害者の感情を満たすことができるため死刑制度を支持する」というわけです

遺族の感情を優先せよという前提に立ちながら、遺族の感情を満たすことが完全にできない刑罰に帰結するところに「死刑を肯定したいという結論ありき」な感じがありますが、現在運用されている制度を活かそうという点で現実的な主張です

このような意見を前にして思うのが「遺族の望むこと=遺族を救済」なのだろうか、という疑問です

例えば、アルコール中毒者は常にアルコールを欲していますが、彼らにアルコールを与えることは救いにはなりません。まともな医者であれば、どんなに辛い道のりになろうとも患者にはアルコールを断つことを進めるでしょう

このように世の中には「自らの望んでいること」が必ずしも自分のためにならない事象は存在します。そのことを踏まえて、遺族が望みがちな「死刑」は本当に遺族の感情を満たす手段になり得るのでしょうか

遺族であれば「あいつが死なない限り絶対にこの苦しみからは逃れられない」と主張するでしょう。しかしながら、これは犯罪者の死を実際に経験した人の意見ではないので、推測の域を出ません。「きっと~だろう」という類のものです

もし、死刑が行われることで遺族の苦しみが和らぐことがなかったら? あるいは、死刑が行われるまでの長い時間の中で遺族の感情に折り合いがついてしまったら?

「そんなことはありえない!」と思うかもしれませんが、実際に死刑が確定した事件の遺族になった人など一握りです。ほとんどの人はそのような体験をしていないのです。にもかかわらず、彼らの感情をまるで自分のものかのように説明する「外野」の人々は遺族の感情を「盗用」しているとさえ言えます。遺族らが何を感じるかは遺族ら次第です。壮絶な体験をしていない外野の人々に遺族の気持ちなど理解できるはずがありません

お医者さんの仕事は患者の健康を回復することですが、それは患者の望みを聞いてその通りに手術をしたり薬を出すことではありません。遺族が「死刑にすれば自分は救われるんだ!」と訴えるのは、極端な例えをすれば「自分はアルコールを飲むと楽になるんです!」というアル中の意見に似ているかもしれません。本当に遺族の心のケアを望むならば、人間の感情に関する体系的な知識を持たない遺族の意見を参考にするより、精神科医の意見を参考にしたほうが合理的です。にも関わらず、「遺族の感情を満たすことが重要だ」という意見の多さの割に不思議なぐらい死刑の話が精神医学の話につながる例を見かけません

邪推かもしれませんが、「遺族感情を重視せよ」と声高に主張する人たちの実際は犯罪者に対する報復感情に燃えている人たちで、遺族のことなど実際のところどうでもよいと思っているのではないでしょうか。彼らが真に求めているのは「死刑にしてほしいです」と遺族が泣き叫んでいる姿です。遺族の主張が自分たちにとって都合の良い主張だからこそ「そうだ! そうだ!」と拳を振り上げるのです。「犯人には死刑は望みません」と遺族が主張した場合に、彼らが同じ温度感で「そうだ! そうだ!」と拳を振り上げるとは思いません

「遺族の感情」を重視するならば、事件がおきたあとにするべき議論は死刑に関する議論などではなく、大切な人の死に向き合えるように遺族を事件から遠ざけたりすることや、遺族が休みを取れるような制度を充実させること、精神科医によるカウンセリングを受けさせる制度を整えることでしょう

「全く別の議論だ!」と考えるならばそのとおりです。自分が死刑制度存続の理由として遺族感情を挙げている人をみていつも思うのはその感覚で、全く異なって存在していいものをあたかも分割できないもののように話しているように見えるのです。犯罪者の死がなくとも遺族の感情を回復することはできるし、遺族の感情が満たされたからと言って犯罪者の刑罰が軽くなるわけでもない。犯罪者を処罰するための法律と被害者を救済するための法律は全く異なります。にも関わらず、犯罪者を処罰するための法律に被害者の救済を織り込もうとしている点に違和感を覚えるのです

色々言いましたが、「遺族の感情」に対する反論は様々なパターンがあると思います。死刑廃止論者にとっては「被害者感情」を盾に死刑を語られても「如何様にも対処できる」ものだと思います。そもそも、「法律」と「感情」は折り合いが悪いものなのです。遺族の感情論は突き詰めていけばいくほど死刑制度存知派に分が悪くなる議論になると自分は踏んでいます

死を伴う刑罰が存在/運用されていることが犯罪に対する抑止力になる

死刑制度存置派が切れるもっとも強いカードがこの主張だと思います。犯罪行為で得られる成果が見合わないほど刑罰を重ければ、人々は犯罪行為をしたがらないはずだ、という推論は合理的な推論です

厳罰化が犯罪の件数を減らすのか、という研究はともかくとして(減るという結果が出た研究結果と変わらないという結果がでた研究結果両方みたことあります)、死刑が重大な犯罪に対する抑止力として機能しそうだとは誰もが思うはずです

我々は「起きた」犯罪については認知することができますが、「起きなかった」犯罪については認知することができません。その点で「抑止力が働いていそう」と考えられていてもそれがどのくらいの抑止力になっているのか、どんな犯罪を防ぐことができたのかをつぶさに知れないことは残念なことです

「効果がありそうだけど、本当に効果があるのか、あった場合、どのくらい効果があるのか、よくわからない」というのがこの主張のウィークポイントです。ですが、研究結果によっては「効果がある」という結論に至っているものもあるわけですから、「よくわかんないなら、やめたほうがいい」と言いづらいのも事実です。死刑を廃止したことで重大犯罪が増えてしまったら、本末転倒なのですから……

この主張について話し合うには犯罪に関する研究結果などを参照しながら議論を深めていくのが正しいと思うのですが、自分は門外漢なので適当にネットで自分の意見に合致する都合のいい論文を検索してドヤるようなことはせずに、一つの疑問を提示して終わることとします

死刑に抑止力があるとして、抑止の対象としたい人物と実際に抑止が働く人物が同一なのか、という疑問です

死刑によって防ぎたい犯罪は死刑を伴うような犯罪――「殺人」のような凶悪犯罪です。窃盗や器物破損などの刑が軽めの犯罪に対して抑止が働くとは考えにくいし、そのような犯罪への抑止を意図してはいないでしょう。ものを盗むときに死刑を意識する犯罪者はいません。窃盗で死刑になることはないからです

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なので、死刑の抑止力の効力を発揮してほしい対象は社会に深刻な被害をもたらす犯罪を計画している者≒凶悪犯罪者になります

凶悪犯罪者について報道されるとき殊更に強調されがちなのが彼らの「異常性」です。複数の逮捕歴がある、性格が粗暴、周囲の人間とうまくいっていなかったなどなど。あるいは彼らの過去に着目して、恵まれない環境で育った、悲惨な過去があった、などが語られます

そのような「異常」な人たちが抱いている「死」に関する感覚は我々がもっている「死」の感覚と同じなのでしょうか。犯罪者の異常性を喧伝しながら、「死を恐れている」という部分だけは一般人の感覚と同一として抑止力を語るのは少しご都合主義的に見えます

冷静な人間であれば、自らの死は何よりも避けなければならないものなので、いかなる利益があろうと自分の死につながる行動は避けます。自分の行った行動の結果を客観的に分析できる人物に対しては重い刑罰は抑止力として働きます

しかしながら、そのような冷静な人物は刑罰の大小にかかわらず、そもそも犯罪に手を染めない、のではないでしょうか。犯罪を犯す可能性が低い人物に対して抑制的に働く抑止は健康な人にかぜ薬を処方するようなもので、予防の効果が低いです

社会に対する憎悪に支配されている人間、自らの命に対する評価が低い人間に対して「死」は抑止力として働くのか、これを検証しなければ意味がありません。むしろ、「死の可能性」という大きな壁を乗り越えることが一種の儀式になってしまって、一線を超えたあとの犯罪行動を過激なものにしている可能性もあると思います

もちろん、どんな死刑囚であれ、社会生活を営んできた過去があるはずですからどこかの時点までは「普通の人間」だったと言えます。彼らが犯罪者になる前の段階で死刑の存在が抑制的に働いていたことは可能性として十分に考えられます

結局のところ、刑罰を抑止力で語る場合に問題となってくるのは、刑の執行と犯罪行為の間のタイムラグです。犯罪行為をしたとしても、刑罰の苦しみは犯罪行為の後に与えられるものですから、近視眼的にしかものを見られない余裕のない人物はこの行為とその行為が未来にもたらす結果を適切に評価できません。「ムカついた! 殺す!」と感じて行為に及んだ後「捕まるのは嫌だ!」と思うのです

そのため、刑罰が抑止力として働くには物事を長期的に考えられる余裕があるかが肝心なのですが、えてして犯罪者はそのような状況にいないことが多いです。死刑の抑止力を考える場合に、「抑止力を働かせたい人物」と「実際に抑止力が働く人物」が一致しているかどうか考えることは重要なことだと思います

死刑がなければ受刑者をずっと刑務所の中で生かせ続けなければならないので、お金や人手必要だ。死刑はそれらのコストを軽減することができる

死刑制度を語るときにコストを持ち出してくるタイプの主張です。わかりやすく言えば「税金で犯罪者を養うのか? 俺は嫌だね」という考えです

自らにメリットがないものに対してお金を払いたくない気持ちはわかりますが、そもそも税金というのは公共の利益に対して使われるものであって、どんな使われ方をするにせよ払った側の利益と相反する可能性を持っています。税金は死ぬまで自分が行くことのない場所の道路を作るために使われたり、人生で一度も会わない人の医療費の補助になったりします。税金が適切に使われているかどうかを評価するには公共の利益に適っているかどうかがポイントで、払う側が必要かどうか感じているかはさほど問題ではありません(「役に立ちそうか」ではなく実際に「役に立っているか」が重要なのです)

この主張には重要な一部分がかけています。「死刑囚となるような人物を生かしておいても社会的にメリットがない」という部分です

自分は社会に重大な影響を与えた犯罪者を生かし続けることは大きなメリットがあると考えているので、「生かしても意味がない」という主張に反対です。詳しくは後で述べますが、「犯罪者」は我々の社会を改善するための重要な資料なのです。刑務所に監禁されていて、社会に対して脅威を振る舞うことはできない状態なのですからなおさら捨てるという選択肢の意味がわかりません

そもそも、これは死刑制度の運用にまつわる話で、議論のタイプとしては「死刑の方法として絞首を採用することは理に適っているか」のような議論と同じです。死刑を続けていくか、やめるかを決めた後にコストの話をすればいいわけであって、コストがかかる/かからないを前提として社会制度を考えていくのは順番が逆転していると考えます

民主主義における選挙制度は「巨大な無駄」だとも捉えられますが、人々が必要性を感じているからいかなるコストがかかろうと実行されます。同じように死刑が必要だという民意があればかかるコストにかかわらずそれは公的な組織によって運用され続けるし、死刑が不要だとなれば、運用がとまるのです

「お金がかかる!」という意見は「よりコストがかからない方式を考えます」という改善のモチベーションになるものの、それ自体が死刑廃止に対する致命的な反論になるとは思いません。このタイプの主張を全面に押し出すと「死刑の代替となる終身刑より死刑のほうがコストが大きい」と判明した場合に、今まで死刑存置を訴えていた人は死刑廃止派に鞍替えしなければなりません。その点でもこのような主張が「死刑にまつわる副次的な」ものであると自分は感じます

 

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ひと続きの記事で全部書くつもりでしたが、長くなってきたので一旦区切ります

後半では最近良く見かける現場での射殺に対する考察と、自分が死刑に反対する主な理由(ここが一番書きたかったのに!)を書いていく予定です

後半はこちら

 

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