『射精責任』を読みました。発刊された当時、界隈(どこのだよ)をざわつかせた本で、「望まない妊娠のすべての原因が男性にある」という主張が展開されているセンセーショナルな本です
センセーショナルなのは本の中身だけではなく、外見もそうです
見てください。この表紙。「ヤドクガエルかよ」と思わせるような毒々しい色の表紙です
(参考:アカオビヤドクガエル)
『射精責任』は著者であるガブリエル・ブレアさんが射精に関しての男性の責任を追求していくもので、28の章で構成されています。それぞれの章のタイトルには「男性の生殖能力は女性の50倍」「精子は危険である」「望まない妊娠は、すべて男性に責任がある」など、思わず男性が反発したくなるような主張が採用されています
本の内容は学術的、というよりかは啓発的な内容です。見出しのページに目に留まりやすい文章を大きなフォントで「どどん」と作り込んで、あとからその内容を説明していくというスタイルは自己啓発本によく見られるものです。読みやすさが重視されているのだと思います
この本の想定読者の一人である「男性」にとってこの本を読むインセンティブは限りなく低いので「少しでも障害をなくしてやろう」という編集者の粋な計らいから読みやすさを重視した作りにしたのだと推察します。男性の責任について延々と語っているので、男性にとってはお金を払って自分を被告人にしてもらうような本です
本の中では、女性の避妊より男性の避妊のほうが経済的/身体的に圧倒的にコストが低いこと、避妊をせずに妊娠してしまったときのリスクが男性よりも女性のほうが経済的/身体的に圧倒的に高いことを理由に「男性が主体的に避妊をすべきだ」という結論に至っています。男女の体の違いを知っていればこれは自ずから明らかなことなことなので反論の余地なしですね
目からウロコだったのは「精管結紮(パイプカット)」という避妊方法があること。パイプカットというと男性機能を完全に封殺するものだと思いこんでいましたが、術後に元に戻したければ簡単に元に戻せるものなのだと知りました
ただし、本の中でも触れられていますが、いくらパイプカットがリスクの低い避妊方法といえども「より」コストが低いコンドームの方に避妊方法として軍配が上がるのは間違いなさそうです。数秒で、お医者さんの手を煩わせずに避妊ができるコンドームは便利な道具です
本書では「男性は自分が行う射精に責任を持って、望まない妊娠を割けるために避妊を行え」という主張が繰り返し述べられています。この主張を真っ向から否定できる人はほぼいないでしょう。そのための手段として、上述のパイプカットかコンドームの使用を筆者は推奨しています
責任ある行動について会話したり、実践したりすることを通じて、コンドームの使用を一気に当たり前にすることができます。「コンドームはつけるべき?」という質問は、馬鹿らしいことだと誰もが知っています。「シートベルトはすべき?」という質問が馬鹿らしいことと同じです
真っ赤な表紙にセンセーショナルなタイトルで男性を煽りまくっている割には極めて常識的な結論に収まっています。「避妊をちゃんとしよう!」というのは中学校の保健の授業で習うレベルの知識です
だからこそ、物足りなさを感じる結論だと感じました。男性側は「避妊をすべきだ」ということを知っていながら、避妊をせずにセックスして望まない妊娠を女性に押し付けているのですから、「避妊をすべきだ」という啓蒙活動を行っても結果は変わらないのです
要するに「わかっているけど、やめられない」が問題なのです。あるいは、「避妊をすべきだ」という常識が「避妊なしのセックス」の希少価値を高めてしまっていることを問題とすべきなのかもしれません。男性側は女性側の「ゴム付けなくてもいいよ」という発言を無意識に望んでいるふしがあって、その結果として「相手が嫌がらなければ」避妊はしなくてもいいという行動を取るのです。避妊なしのセックスを「自分を認めてくれた」という愛の証しであると感じる男性は少なくないと思います(一方で女性側は男性がちゃんとゴムを付けてくれることに愛情を感じるという人が多いようですから男と女で愛のある性行為に関する認識が逆転しています)
男性が避妊なしのセックスを望んでいることは世の中に氾濫する成人向けのコンテンツを見れば明らかでしょう。それらのコンテンツには「生」や「中」などの言葉がキーワードとしてふんだんに盛り込まれています。自分もアダルトコンテンツを見ますけど、AV男優がコンドームをつけてセックスしているシーンを見た覚えがありません
シートベルトをしていないドライブ動画が投稿されたらSNSで炎上しそうなものなのに、コンドームをつけずにセックスしている動画が投稿されても全く炎上しません。「避妊をすべきだ」という常識がいかに「建前」的なものなのかは考えるまでもなく明らかです
となれば、「コンドームをつけるよう男性側にお願いする」という性善説的な手法ではいつまで経っても問題は解決しません。男性の本音は「つけたくない」なのです(かつ、射精の責任も取りたくない)
最も強制力がありそうなのは「射精」を追跡可能にすることです。誰がいつ、どこで射精をしたかがわかるようになっていれば男性はむやみやたらに射精をすることができません
むろん、ここまで追跡可能にするのは人体の仕組み上難しいです。射精の責任というのは受精が起きたときに受精させた女性とその子供に対しての責任です。なので、妊娠が起きた場合にその受精卵は誰の卵子と誰の精子によるものなのかが確実にわかれば、射精の責任を追求できることになります(誰の卵子によるものなのかは母体がわかれば明白です)
ゆえに、指紋を採取するようにしてすべての男性の精子のデータベースを作成すれば、すべての有効な射精には逃れられない責任が伴うことになります。こうすれば、男性側も無邪気に避妊なしのセックスを楽しめなくなるというわけです
ただ、書いていて思うのは、たとえこれが技術的に可能で賛同を得られたとしても現実のものとなるのは10年、20年単位の未来の話だろうということです。その点において今を生きる女性たちにとってはこの提案は無意味なものであり、この提案を行うことによって射精の責任を明確化したと考えるのはむしろ「無責任」の部類に見えるでしょう。ならば、「コンドームをつけよう」という結論は現時点での最も現実的な解決方法です。実効性に乏しい気はしますが
巻末に付属している齋藤圭介さんの解説の的確さも本書の優れた点の一つです
アメリカにおける妊娠中絶論争の経緯と争点となっている事柄を紹介しながら、本書が出版された背景――2022年にロー対ウェイド判決が覆されたこと――についてまとめています
加えて、日本における妊娠中絶問題についても触れています。読んでいて驚きだったのが、日本の刑法では「中絶」が堕胎罪という刑事罰を伴う罪であるということです
あとから作られた母体保護法という法律により堕胎の罪は問われないことが慣例となっているようですが、「日本は中絶に関して寛容だ」は必ずしも正しくないことがこの一点からわかります
長くなってきたので、言いたいことを言って終わりにします
妊娠中絶問題にかかわらず性に関する問題の根底には共通する1つの大きな要因があると思います
それは「性に関する問題は公にすべきではない」とする大きな圧力が社会全体で働いていることです
例えば、私達は日常会話でセックスに関して話しません。誰と、いつ、どんなことをしたのかをべらべらと喋るケースは稀です。言わないのですから、セックス中に何をしたとしても関係者以外にバレることがありません。プライバシー保護の観点からはこれは正しいといえますが、このような風潮が性的悩みの解決の困難さや性犯罪の温床になってしまっています
他人の性癖を明らかにすべきではないという社会的通念も同様です。「性的指向/性的嗜好は究極のプライバシーだ」とよく言われたりしますが、この主張の根っこには「自分の性癖を知られたら周りから非難される」という不信感が存在します
他人の性癖がわからなければ、「自分の性癖が変かどうか」はわからないはずなのですが、なぜか「自分の性癖を晒したら不利になる」と皆が思っています
その結果、性的なロールモデルが不在のままになってしまっていて、何が正しいのかがよくわからなくなっています。参考にできそうなものは保健の教科書か成人向けコンテンツぐらいなものですが、「性行為は取り扱わない」というはどめ規定を勝手に設けて毒にも薬にもならないような内容を教え込む保健の教科書と極端に性欲を煽りまくるコンテンツを量産している週刊誌/AV/エロ漫画の主張は両極端です
「一体全体、何が起きているのかわからない」が社会が抱える「性に関する問題」の根っこだと思います
クイズの問題がわからなければどんなに頭のいい人でも正しい回答を導くことができません。性の問題の解決は最終的には人間の性の実態が見える化されないかぎりは終わらないのだと思います