死刑反対/死刑制度廃止派のうんこな主張4つ

どうもshigoroxです。

和歌山毒物カレー事件の林真須美死刑囚、再審請求し受理される : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン

和歌山毒物カレー事件の実行犯とされていた林真須美死刑囚の再審請求が受理され、以前から囁かれていた冤罪説の可能性が現実味を帯びてきました。

実際に冤罪であるかどうかはともかくとして、巷を賑わせているこの一報のためか死刑制度の存廃に関する議論を最近よく見かけます。

記事のタイトルだと、俺が死刑制度を存知するべきだと主張する立場、いわゆる死刑賛成派であるかのように見えますが、実際は死刑制度は廃止すべきだという意見を持っています。

ですが、よく見かける死刑制度廃止派の意見というのは同じ廃止派の俺からしてみても納得しかねるものが多く、「その意見だと存知派の人たちも首をかしげてしまうだろう」と思ってしまいます。

そんな死刑制度廃止派の納得いかない主張4つについて考察していきます。

なお、死刑制度を取り巻く議論は正確には死刑制度存廃問題と言うらしいですが、この記事では一般的な呼び方として普及している(と思われる)死刑制度反対、賛成という呼び方をします。なので、この記事は死刑制度反対派のおかしな主張について取り上げるという形になります。

また、ここでは死刑に該当する犯罪として「殺人」を想定しています。

1.人権

人権、と書くだけで大体の主張の内容がわかってしまうほどよく見る、典型的な死刑反対派の意見です。曰く、「すべての人間には生きる権利が保障されているべきである。故に、罰として生命を奪う死刑制度は廃止すべきである」、という主張です。似たようなパターンとして「生命の尊厳」という主張もありますが、これも人権派と根本的におんなじ意見だとみなして良いでしょう。こちらは「人の命は唯一であり、尊いから奪ってはいけませんよ」という若干宗教の雰囲気を漂わせる主張です。

まぁ、ぶっちゃけて言えば、こういう意見ってかなりズルいですよね。小学生の戯れで登場する「バリア!」を彷彿とさせます。「バリア」貼ってれば無敵みたいな。「人権バリア」「生命の尊厳バリア」とでも名付けましょうか。

死刑制度賛成派の方々がこの主張を掲げる人間たちを見て、ムカついたであろうことは想像に難くないです。というのも、これらの主張は「生きる権利」とか「命は素晴らしい」とか何となく否定しづらい一般的な了解を元に論理を展開しているので、この意見に反駁しようとすると「じゃあ、あなたは国家に殺されてもいいんですか?」とか「命は尊くないんですか?」とかあたかも反論する側が一般的な価値観に背く悪人であるかのような切り返しをされるからです。

「死刑 反対」とぐぐると、アムネスティインターナショナルが感傷たっぷりに書いた文章が真っ先に出てきます。

www.amnesty.or.jpなぜ、アムネスティは死刑に反対するのか? という見出しから始まる段落の内容は「生きる権利」タイプの反対論者が述べるテンプレートのような内容なので引用します。

「生きる権利」は、すべての人が、人間であることによって当然に有する権利です。国籍や信条、性別を問わず、子どもも、大人も、この世に存在する誰もが、生を受けたときから、この権利を持っているのです。言うなれば、この「生きる権利」は、人間にとって根源的な、最も大切な権利であり、決して奪ってはならないものです。またこの権利は、世界人権宣言でうたわれ、国際人権条約である自由権規約においても保障されています。

アムネスティ・インターナショナルが「死刑」に反対するのは、「死刑」という刑罰が、この「生きる権利」を侵害するものであり、残虐かつ非人道的で品位を傷つける刑罰であると考えるからです。

 死刑制度賛成派も「すべての一は生きる権利を持っている」という主張に反対することはないでしょうし、それを否定することは相当難しいです。

ただし、殊に死刑制度存廃問題に限っては「複数の人間を故意に殺害した人間」という特殊な事例について話し合っているのでり、一般的な原則である「生きる権利」が保障されるべきかどうかは疑問です。

極端な例をあげてみますが、例えば、街中に突撃銃のような強力な武器を持った男がいて、明確な殺意を持って他者に向けて発砲を行っているとしましょう。その人物の行動を早急に阻止しなければ多くの他の命が犠牲になってしまいます。

現場には銃を持った警官が一人。拳銃を打てば殺人犯は死ぬ可能性がありますが、殺人犯の行動は止まります。

このような特殊な状況下で警官が殺人犯を殺したとして、警官が「人殺し」の誹りを受けるでしょうか。その警官が「生きる権利」に対して反対だとか「生命の尊さ」を理解していないと主張するのはおかしいです。

第一に、死刑に該当するような重大犯罪を行った人物に対して原理原則である「生きる権利」が適用できるのかどうか、についてこのタイプの主張をする反対派はよく考える必要があると思いますし、第二に死刑制度に賛成の人々は、「死刑」という制度の継続に社会的なメリットがあると考えているはずなので、必ずしも「生きる権利」を否定しているわけではありません。つまり、「生きる権利は認めるが、社会的な利益を考えた場合殺すべき人間は存在する」というわけです。ここの解釈のずれで議論が巻き起こっているのに「生きる権利」論者はスタート地点である「生きる権利」に固執する余り往々にして議論を平行線に持っていきがちです。

「とにかく生きる権利が重要なんだ」と頑なに主張する人権派はまさに教条主義の権化と言うべきであり、融通の効かなさの象徴的存在だと思います。

2.冤罪

「①死刑を受けた人間が冤罪である可能性は否定できない。②死刑という刑の執行は犯罪者の死という不可逆的な罰を行うものである。③死刑執行後に冤罪が発覚した場合、すでに死んでいる人物の権利を回復する手段は存在しない。④故に死刑は廃止されるべきである。」

……書いているだけで論理の飛躍が見つかってしまうような議論です。「生きる権利」派の人々の主張は「頑固だ」とか「宗教チックだ」ということを除けば最低限の説得力があるとは思いますが、冤罪論に関しては全くそう思いません。

上の主張でいいますと、①~③までの論理展開に関しては特に疑う余地はありません。死んでしまった人物を蘇らせることはできないのですから、死んでしまった後にお墓の前で「ごめんね」しても無意味です。

だからといって、その①~③を根拠として、④死刑制度廃止ということを主張するのはいくらなんでもぶっとびすぎています。どうして冤罪が存在することが死刑制度が存在することの問題点になるのか、正直よくわかりません。

そもそも、時間というものも不可逆的な特性を持っているはずなので、普通の懲役刑であっても、冤罪被害者の権利を回復する手段はありません。冤罪というのはあってはならないものであり、そのあってはならないものが存在することが理由となって制度そのもののが無意味だとされるのは極端だと言わざるを得ません。この意見が通ってしまうようであれば、「すべての刑事裁判には冤罪の可能性があるのだから、刑法によって被告人を裁く刑事制度は無意味である」という極論もまかり通ってしまいます。

記事の冒頭であげた林死刑囚の件であったり、袴田事件であったり死刑判決で審理が終わった事件が冤罪(またはその可能性)を疑われることは事実としてありますし、その結果無罪だったということもあります。ですが、それは検察とか警察組織の責任問題であって、冤罪の可能性を考慮して審理の内容が変わってしまうことを認めるのはいかがなものかと思います。「冤罪の可能性もあるっぽいけど、一応、有罪で(笑)。ちな死刑」。なんて適当な判決を下す裁判官がいたら冤罪被害者に殴り飛ばされていると思いますよ。「有罪」「無罪」の判決は被告人の人生を決定する重大なものであり、「有罪」が適用されるのは犯罪の事実が疑いようもなく事実である場合です。裁判官はその確信を持って判決を下すのです。裁判官が確信を持てないならその被告人は「無罪」なのです。

有罪であるという事実を元に量刑を決めるのですから、「実際には有罪ではない有罪判決を受けたもの」という仮定を織り込んで量刑制度を設計すべきだというような意見には疑問を抱かざるを得ません。死刑制度の問題とは全くの別問題でしょう。

このタイプの「冤罪があるかも」論者の主張はどう頑張っても「冤罪は絶対いけない」という結論にしか到達しないと思います。そして、「冤罪がよくない」ことと「死刑がよくない」ことは必然的に結びつかないわけですが、往々にしてその2つの意見を結ぶ架け橋となる部分の主張が見受けられないので死刑賛成派の納得を得られないのだと思います。

3.海外では死刑廃止が主流

あえて論ずるまでもないような意見ですが、ちらほら見かけるのであげておきます。

一言でいえば、「だからどうした?」という話です。こういう人たちは海外で死刑制度が主流であれば、死刑制度賛成になるんでしょうか?

多数であることは正当であることの根拠にはなりません。重要なのは「なぜ海外では死刑廃止をしている国が多いのか」の理由であり、「海外では死刑を廃止している国が多い」という事実ではありません。

なんと言うか、大雑把な主張ですよね。「みんなやっているから、俺達もやってみようぜ!」的な。海外の国だって、何かしらの理由があって死刑制度を採用していないのでしょう。死刑に賛成する人たちはその理由に納得していないのです。

4.受刑者の更生の可能性を奪っている

これは議論の別れるところですし、厳密に論じるのであれば統計データのような確たる根拠が必要になる主張でしょう。

「死刑囚とて社会に還元できるリソースなのだから、死刑を処してそのリソースを奪ってしまうのはおかしい」という主張そのものに欠陥はないと思われます。理想を言うならば、「できるならそうすべき」なのでしょう。

ただし、死刑反対論者って軽々に「死刑に該当するような重大犯罪を犯したやつも更生可能だよ」っていいますよね。そんなに簡単なことではないと思うのですが……。

もちろん、可能性として更生できる人はいるでしょうし、現にそれに近い事例もあるみたいです。

https://www.afpbb.com/articles/-/3263589

ただし、更生したとして、本来死刑囚になるはずだった重大犯罪者を社会のどこに配置させればいいのでしょうか。職場にやって来た新入社員が元シリアルキラーなんて俺は嫌ですよ。「俺、若い頃やんちゃしてて、ぶっちゃけ2人ぐらい人殺してるんすよ(笑)。マジ反省」なんてやつがいたら、「……お、おう」としか言い返せないです。「そうなんだ。でも、刑務所から出所できたんだから君は更生したんだよね。だから、君の人格を疑ったりしないよ」というのが聖人的模範解答なのでしょうが、俺にできる気がしません。

これは個人的な意見なのですが、人を複数殺してしまった人が刑務所以外の社会でうまくやっていくことって現実的に不可能だと思うんですよね。更生すること自体は時間をかければ必ずしも不可能ではないと思いますが、受け入れてくれる場所が少なすぎる。それに、現代では正義を振りかざして面白半分で近寄ってくるマスコミの連中や一般人たちが大量に群がる可能性があるのでせっかく更生できたとしてもその後の社会生活で歪んでしまう可能性が多分にある。世間の偏見にさらされながら生きるのは苦しすぎます。それであれば、ずっと刑務所に入っていたほうが元受刑者にとっても幸せなのではないでしょうか。

結局、そういった人たちの受け皿となるのは、「元犯罪者を受け入れている団体」であり、重大事件の犯罪者の居場所はかなり限定的な"社会"に違いないでしょう。

1~3に比べれば、「うんこ度」は遥かに低い4つ目の更生可能性についてですが、そもそもこれについて論じていない死刑反対意見もよく見受けられるのであげてみました。この点に無自覚で論じられた死刑廃止論はぶっちゃけ無責任だと思います。

「死刑嫌だけど、そいつらは刑務所で適当に更生させといてよ。いけるっしょ」って。投げやりか。

 

以上、自分が見てきた中であんまり納得いかない死刑反対派の意見4つでした。少しでも死刑制度について考えるきっかけになってくれたら幸いです。

死刑制度存廃問題について俺が一番不気味に思うのは、「世間の死刑賛成論の割合」と「言論界における死刑制度賛成論の割合」が逆転していることです。要するに、メディアは死刑反対論に積極的でそれが正論であるかのように論じているが、世間の人々は実際はそう思っていない。メディアの意見というのは、教育水準が高い人間たちの意見だと思ってもらって差し支えないと思うのですが、そういった人々が見ている現実とそうではない人々の現実に乖離があることは問題だと思います。

近年で言うと、トランプ大統領当選のショックの構造とよく似ています。俺は死刑制度廃止派なので強くは言えませんが、メディアはもっと死刑制度存置派の意見に真摯に向き合うべきでしょう。「下々の民が何か言ってら」という超然的なスタンスでは、いつまで立っても合意が得られないばかりか、人々が「上の連中は俺達の意見を効かない」と腹の中で社会に対する不信感を抱くきっかけになってしまいます。

建設的な議論はお互いに信頼関係があることが前提となります。現実的意見≒本音が登場しない議論に意味などありません。