『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』感想 「すべてのものが相対的でどちら側にも言い分がある」場合、どのようにして争いは解決できるのか

橘玲(『ぱにぽにだっしゅ!』でない)さんの新著『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』を読みました

この方の代表作である『言ってはいけない―残酷すぎる真実―』を読んでからから面白い人だなと思って新しい本が出たら読むようにしています。本書も興味深い主張が盛りだくさんで楽しめました

この本はPart0~Part4まで続く5章で構成されています。Part1~Part4までは作者が雑誌に寄稿した記事を再録したものになっており、「安倍元首相の銃撃事件」や「頂き女子りりちゃん」などの当時の話題をちょっとうがった目で見ていく、時事ニュースのような読み物になっています。それぞれの記事の長さは1~3ページ程度。はっきり言ってしまえば筆のすさびのような気の抜けたような文章になっています

ただし、Part4(マイナ保険証問題、ジャニーズ問題)に関しては文章が長めで主張もはっきりしていて作者のやる気が感じられます。「読者は本の最初を見てその本を読むかどうかを決め、最後を読んでその作者の次の本を読むか決める」というのは出版業界では知られたことなので、面白い内容のトピックを最後らへんと最初らへんに配置したのだと思われます

Part0という名前で一番最初に論じられるのが本書の中のおそらく唯一の書き下ろしであろう「DD論」についてです。多くの諍いは善/悪に二分できるものではなく、「DD=どっちもどっち」であるというある種使い古されたような主張なのですが、例示として挙げられている「ロシア/ウクライナの争い」と「イスラエル/パレスチナの争い」の解像度が高く、視点もユニークなのでぐいぐいと読ませる文章になっています

「すべてのものが相対的でどちら側にも言い分がある」場合、どのようにして争いは解決できるのか――、ここでは詳細は書きませんが橘玲さんが出した結論はやはり面白い結論でした

というわけで以下は本書の内容のネタバレ(?)を含む文章なのでまず始めに本を読みたいという方はあとから読んでください

 

 

Part0の「DD論」の結論として語られているのが「忘却」です。要するにどちらにも言い分あるのだから、過去にあったことを水に流して、「なかったこと」にして生きていこうぜ、というある種の暴論じみた結論です。被害を受けたと自認する側としては「こんなのありえない」と思うはずです

しかし、善/悪二元論が招く結論と比較してみると、やはり「忘却」こそが最も平和的で合理的な解決なのだということは自分も同意します。争いに参加するどちらの側も相手を「完全な悪」と決めつけ自分たちこそが正義だと主張するのですから、善/悪二元論が導き出すハッピーエンドはどちらかの陣営が根絶やしになった状況です。少年漫画的には悪役が主人公によって排除されることがそれにあたりますが、リアルの世界、戦争であればそれは民族浄化や他国の人間の虐殺を意味します

だとすれば、お互いがお互いに歩み寄り、浄化ではなく、共存を選んでいくほうがよっぽど建設的です。そのためには、過去に何があったかこだわり「捨てる」ことが必要なのです

書いていて改めて思いましたが、平凡な主張ですね。「喧嘩両成敗」「過つは人の常」という古い格言にあるとおりです。ただし、SNS等で毎日炎上を目の当たりにしている現在の状況では再考の余地が多分にある内容です

論証の中で「被害者意識ナショナリズム」という面白い概念が使われます。これは大東亜戦争/太平洋戦争でこてんぱんに負けた日本が「間違った戦争をした」自分たちを正当化するために戦争で受けた被害を必要以上に訴えることによって、自分たちの過ちを意図的に隠そうとしてきたことを言い表したものです。

林志弦さんはポーランド近現代史を専門にする韓国の歴史学者ですが、(...)東欧と東アジアの「被害=犠牲の記憶」を比較しつつ、きわめて論争的な主張をしています。ひと言で言うならば、「日本人はヒロシマを、戦争の加害責任から目をそらすために利用してきた」になるでしょう

この概念は自分の肌感覚とも一致します。日本の戦争を振り返る報道はアジアに進出した兵士たちの行いにフォーカスが当てられるのではなく、なぜか戦争末期の広島/長崎の原子爆弾投下の事件や神風特攻隊の悲劇に集中しています。「戦争がなぜ悪いのか」に対して「人がいっぱい死ぬからだ」という回答をするのはお決まりですが、そのときに回答者の意識にあるのは「自分たちが殺す」のではなく、「自分たちが殺される」ことです。国際的には当時の大日本帝國は「侵略者」なのですが、日本国内の報道ではなぜか「攻め込まれた側」であるかのような視点のものが目立ちます。『火垂るの墓』『はだしのゲン』『この世界の片隅に』……戦争を描いた有名な漫画/アニメ作品はいずれも子供/女性などの弱者を通じて戦争を描くことで「侵略者としての日本」を描かずに「被害者としての日本」を強調しています

「被害者意識ナショナリズム」の是非については立ち入りません(本の中でもそのことは曖昧に書かれています)。戦後、すべてを失った日本はこの「被害者意識ナショナリズム」の手法を使わなければ自分たちの存在を正当化することはできずに、前を向くことができなかったかもしれないからです。ただし、この極端な記憶の改変からわかることは多くの人は「間違った」まま生きていくことができないということです。当時の日本では新たな形式のナショナリズムが望まれていましたが、戦前のようにアメリカを筆頭とする欧米社会を敵国に認定することはできないし、先祖たちで構成される過去の日本と決別することもできないので自分たちを被害者に見立てたうえで「戦争そのもの」を敵にすることで自分たちの正当性を担保することに成功したのです

読んでいて思ったことは、現在の日本の起点となったあの敗戦について自分は「国内から見た戦争」しかほとんど知らないということです。「中華民国から見た戦争」「ビルマから見た戦争」「朝鮮半島から見た戦争」、これらの視点を組み合わせることでしか、あの戦争で何が起きていたのかを正確に記述することはできないのでしょう

Part0の「DD論」とは別に興味をそそられるトピックをもう一つ。Part1の『「完全な合意の取れるセックス」売買春を合法化しよう』の中で2023年に不同意性交罪、不同意わいせつ罪が刑法に追加されたことを受けて作者は以下のような記述をしています

「同意」がないと刑務所に放り込まれ、何もかも失ってしまうかもしれないとなったら、男性はどうするのでしょうか。(...)一つだけ確かなのは、「完全な同意のとれるセックス」への需要が高まることです。これは要するに「売買春」のことです

文章を見て軽く笑ってしまいました。考えてみればその通りで、事前に時間やプレイ内容、料金を決めて性交をする「売買春」のほうが、なんとなくそういう雰囲気になって行う「自然な性交」よりもはるかに合意が取れたセックスなのです

友達や彼女を密室に連れ込んだのちに何も取り決めずに行う従来的なセックスは、客観的に見ればレイプと見分けがつきません。事後に誘われた側が「そんなつもりはなかった」と言ってしまえば、「愛がある」と思われていた行為は一瞬にして、「強制わいせつ」という犯罪に成り下がるのです

レイプと普通のセックスの違いは、両者の関係性にあるという人もいるかもしれません。付き合っている人と行うのがセックスで、顔も名前も知らない人と行う性行為はレイプだ、というわけです。ただし、警視庁が公表している以下の資料によるとレイプ犯の8割は顔見知りによる犯行、6割はよく知っている人によるものだとわかっています

https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/kou-kei/lecture/no4/pdf/p10.pdf

人間の関係性というのは客観的な評価が難しいもので、自分が「仲が良い」と思っている人でも相手から「仲が良い」と思われているかはわかりません。法的根拠のある婚姻関係ならまだしも、友達、彼氏-彼女という関係は「何があったら」そういう関係にあるのか全く決まっていないのです

ゆえに、「相手は自分のことを恋人だと思っているが、自分は相手のことを顔見知り程度にしか思っていない」という状況は往々にして起こり得ます。このような状態に陥ったとき、相手と恋愛関係にあると思いこんでいる一方がセックスをしようとして、不同意性交になるということが起こります

そもそも、セックスをどのような相手とどのような状況で行うべきかの取り決めなどまったくないのですから何が同意のサインになるのかの判断は判断する側に大きく委ねられています。ある人は、「終電……逃しちゃった」がOKのサインだと言う人もいれば「ちょっと、休憩しようか」に対する頷きがOKのサインだと考える人もいます

「僕はあなたとこれからあのホテルで60分間に渡るセックスをしたいと考えていますが、問題ないでしょうか」なんていう誘い文句で始まるセックスを自分は知りません。性に関する情報はプライバシーの中でも特に守られるべきものだと考えられているものですから(これはなぜなんでしょうか?)、こんな言い方をしたらデリカシーがないと思われても無理はないでしょう

しかし、刑法に新たに追加された不同意性交罪の立法趣旨を汲むならば、これが法的に正しいセックスの誘い方なのです。誰とセックスを行うのか、どこで行うのか、どのくらいの時間行うのか、どんなプレイをするのか、事前にシャワーは浴びるのか、避妊はするのか、妊娠した場合はどうするのか……。これらの項目一つ一つに両者の同意を得ることで「法的に正しいセックス」が生まれるのです

皮肉なことに、その「法的に正しいセックス」を長年にわたって行ってきたのが、違法だとされている売買春のシステムなのです。不埒だ、汚らわしい、というネガティブな印象がまとわりついていますが、売買春のシステムは人間のセックスを極めてリベラル、あるいは合理的に解釈したものなのかもしれません

となれば、「不同意性交罪」によって起きるのは「性産業」のオープン化でしょう。公営マッチングアプリが始動し始めたのは記憶に新しいですが、その延長線上で公営セックス場が運営されるかもしれません。セックスをしたい人物たちが入場し、公証人がその人物たちの仲介を行い、帰り際に「ゆうべはおたのしみでしたね」を言い放つ施設です

それがいいか悪いか……はともかくとして、セックスという人類最大にして最後のフロンティアに国家が介入してくる未来は近いのかもしれません

というわけで、『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』、面白い本でした(取ってつけた感)