『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 』という本を読みました。1996年~2002年にかけておきた北九州監禁殺人事件について描いたノンフィクション本です
2002年の当時は自分は10歳にも満たない年齢だったのでどのような報道がなされたのか記憶にはないですが、伝聞情報によると犯行内容が残忍すぎてメディア側で自主的に報道自粛がかけられたほどだといいます
実際、本の中身を見てみると、自粛がかけられたのも頷けます。人が次々に死んでいく上に、その死に方も普通の死に方ではない。死因となった直接の原因は被害者ごとにそれぞれですが、大まかに分類するなら全員「拷問死」でしょう。松本太、緒方純子夫婦(内縁)による残酷極まる犯行内容は地上波の映像ではおろか、文字情報ですら表現するのをためらうほどです
本書では事件のあらましから裁判の結果まで淡々とまとめられています。ただし、一連の犯行の内容について正確に知る人物は受刑者の松本太、緒方純子2人のみで、多くの部分を緒方純子の供述を元にして事件が描かれています。7人という多くの死亡者が出ている事件なのにもかかわらず、遺体は1つも発見されておらず、物的証拠もほとんど存在しないために本当のところ何があったのかを知る由はありません
事件は唯一の生存者である恭子さん(仮名)とその父親である清志さん(仮名)が監禁される部分と緒方家がまとめて監禁される部分の2つに大まかに分けられます。前半の犯行は恭子さんの供述も踏まえて述べられています。自分の父親が尊厳を奪われて死に追いやられていく様を目の前で見なければ行けない娘の心境とはどのようなものなのでしょうか。想像を絶します
前半部分だけで「これが続くのか……」と読み始めたのを後悔するぐらいに残酷です。清志さんが追い詰められ弱っていく様が克明に記述されています。後半の緒方家の争いに関しては「世間体を守りたい」という一族の良からぬ動機も見え隠れするので少し自業自得感があるのですが、清志さんに関しては純粋に松永太を信じて騙されていた人物なので事件の理不尽さを一層際立たせています
後半の緒方家の監禁事件については清志さんの死に比べればあっさりしています。いや、十分残酷なのですが、読んでいる自分に耐性ができてしまってそう感じただけかもしれません。2人目、3人目、4人目、5人目、6人目、7人目、と流れるように死が続いていきます。犯行の手口はほぼ同一です。主犯であるはずの松永太が一切手を加えずに他人を葬り去っていく姿が恐ろしいです
北九州監禁殺人事件の特異な点は「洗脳」殺人だということに尽きます。狭い人間関係の中で、松永太は電気ショックによる拷問で行動を支配し、緒方家の人々をお互いに殺し合わせることに成功しました。本の中では「学習性無力感」やDVを受けた妻の研究などが引き合いに出されてその心理が解説されていましたが、登場人物たちの行動を見ていると「なぜ松永太に従うのか」という当たり前すぎる疑問が頭の中からすっぽりと抜けている状態だったことが見て取れます。「逆らう」という選択肢はすでに彼らの中に存在せず、どのようにして松永太の機嫌を損ねないかが行動原理となっていたのでしょう
松永太の「サイコパス気質」――話術の巧みさや自分の目的のために人を使役させることの上手さに注目が行きがちな本事件ですが、彼単体ではこの事件はなし得なかったでしょう。彼の邪悪さをエスカレートさせていったのは彼が2つの武器を持っていたからです
1つ目が「通電」と呼ばれる電気ショックの拷問。電気の利用は人類史で見れば比較的新しい出来事ですが、それ故に電気ショックは人体が「想定していない」刺激なのでしょう。実際、原始的な生活の中に電気の入り込む余地など落雷以外にありません
電気ショックという体が対応していない未知の刺激が松永の支配を決定的にしました。電気ショックを食らったところですぐに死ぬわけではないとわかっていても、本能的に体が忌避するものなのでしょう。恐怖が被害者たちの思考を鈍くさせ、結果的に最悪な選択肢を取らせるように仕向けてしまいました。こう考えると、我々の日常に電気が常に流れていることの「危なさ」に気づかされた気がします。電気ショックを受けたときにどうすればいいかなんて習ったこともないし、考えたこともありません
2つ目が「緒方純子」という絶対に松永太に逆らわない狂信者の存在です。緒方純子は松永太によって虐待を受けていたという事実はあれど、一連の犯行の中でほぼ常に松永と行動をともにしています。ある集団に自分の言う事を聞かせたい場合、その人物がどんなに話し巧みであろうと周りの人間の中に賛同してくれる人が誰もいなければ目的を達成することはできません。客観的に見れば緒方純子は松永太に無条件に好意的で、松永太の第一の理解者として彼の行為を助長させてきました
騙されていたのだ、といえば聞こえはいいですが、供述の中では彼女の「被害者」の側面と「加害者」の側面をうまく切り分けて話しているようにも思えました。自分の都合の悪いこと=犯罪行為に関しては、「騙されていた」、自分に取って都合のいい部分(例えば被害者を気遣ったりする場面)に関しては「自分の意志」といった風に、悪いことはすべて松永太に押し付ければよいという責任転嫁の思考があるように思えます
逆説的にいうと、「悪いことはすべて松永の指示」という思い込みが彼女を凶行に走らせた原因とも言えます。松永の指示で動いている以上、彼女の中では悪いことはすべて彼女の責任ではないのです。松永は松永で自分が責任の対象とならないように他人の手を使うことを好みましたが、緒方純子もまた、別の方法で責任回避を行っていたと言えます
この本の著者は「DV被害」という側面を強調しているので、緒方純子に対する批判は少なめで、あとがきを含めるとむしろ好意的に描いている側面さえあるのですが、その姿勢にはちょっと疑問です。筆者はこの見解に否定的ですが、裁判所の第一審の判決文の一部は松永太と緒方純子の関係についてこの事件の実情をかなりうまく言い表していると感じました
松永は強烈な金銭欲を満たすためには手段を選ばないという異様な大胆さを持っているが、他方で、髪の毛一本も残さないほど徹底的な証拠隠滅工作を行うという病的な小心さをも兼ね備えている。他方、純子は、相当に刹那的な傾向が強く、非常に割り切りが早く、猪突猛進、あるいは独りよがりな行動を取る。つまり、様々な大胆かつ巧妙な犯罪を思いつくが、その小心さ故に自分の手を汚すことを極度に嫌う松永にとって、思考停止型の割り切りの速さで、犯行指示を愚直なまでに忠実に実行する緒方の存在は、欠かせないものであった。端的に言えば、両被告は善悪のたかが外れた発案者と、その指示にひたすら従う忠実な実行者として、車輪の両輪といえる関係だった
緒方純子が松永にとって特別な存在であったことは明らかでしょう。松永の周辺には愛人はじめ、元妻など様々な人物がいましたが、いずれも松永の異常性に気づき、逃げています。彼が詐欺事件の逃避行でパートナーとして選んだのは緒方純子です。最終的に生き残ったのが緒方純子とその息子たちであるのも偶然ではないでしょう。松永の会社で働いていた社員が作った通電ツールと同じように緒方純子は「絶対に裏切らない」松永にとってものすごい都合のいい道具だったのです
緒方純子が単なる「もの」であれば責任はないですが、彼女は人間です。自分の意志で判断して松永に従っていたことは明白です……いや、ここまで書いておいて気づいたのですが、彼女の異様な点は彼女自身の意志がないことなのかもしれないです。どんな状況に陥ろうともその状況を改善しようとは思わずに、ただ流されるままに生きている。これが「罪か?」と言われれば微妙ですが、松永太と同じくらい緒方純子も偏った人物なのではないでしょうか。松永太が自分大好き人間で自己中心的な人物だとすれば、緒方純子は自分自身に対して超無関心なのです。「私とか周りの人間はどうなってもいいから、とりあえずこの場をやり過ごそう」を繰り返して状況をどんどん悪化させていきました
松永太は積極的な殺人鬼ですが、緒方純子は消極的な殺人鬼だと言えます。どちらがより悪いなど議論しても無駄ですが、後者の「消極的な犯意」に関しても十分に議論がなされるべきなのではと読んで思いました