愛猫や愛犬が死んだときに、「うちのポチ/タマは虹の橋を渡りました」という表現をする人をよく見かけるようになりました
最初に聞いたときは「虹の橋ってなんだよ。お台場のレインボーブリッジのことか?」とか思いつつ内心小馬鹿にして聞いていたのですが、この表現が流行ってきてしまったせいか「レインボーブリッジ」ネタはすっかり言いづらくなってしまいました
動物の生死に関わる表現なので、馬鹿にするとそれを不謹慎だと思う人はいるんでしょう。キャベツ畑とかコウノトリとかと同じタイプの小さい子向けの表現だと思っていた自分は「虹の橋www」とか反応していたら普通に怒られました
でも、不謹慎なのは承知のうえで「虹の橋なんてねぇよ」って言いたくなっちゃうんですよねぇ。だって、「虹の橋」の存在を主張する人があんまりにも真面目に言うんだもん。「本当に信じてるの?」って確認したくなっちゃいます
「虹の橋って何? レインボーブリッジ? レインボーブリッジ渡ったらお台場だよ!? あなたのペットはお台場に行ったの? フジテレビ!? ユニコーンガンダム!?」。あはは
調べてみると虹の橋はエドナ・クライン=リーキーというスコットランドの愛犬家が作成した詩に由来するものらしいです。結構しっかりとした由来があってびっくり
虹の橋とは天国の手前にある場所で、ペットとして生きていた動物は死んだときにその橋のふもとに行くそうです。橋のふもとはご飯が尽きる心配がなく、病気や老いもないというとにかく都合のいい空間で動物たちはその空間で悠々と過ごしながら主人を待ち続けるのだそうです。主人が死んだら一緒に虹の橋を渡って天国へゴールイン!
全文を翻訳したものは以下のページで公開されています。以降「虹の橋」の詩を引用するときは以下のページの翻訳を使用します
詩に対してこんな感想を抱くのはナンセンスですが、ご都合主義過ぎてなんとも言えないですね。動物に対して「こうあって欲しい」という人間の願望のハッピーセットです
「ペットは主人なしでは天国にいけない」という隠された設定にキリスト教的な動物への差別感情がほんのりと感じられます。そもそも主人が地獄行きだった場合、彼らはどうなるのでしょうか。ずっと待ちぼうけ……
動物たちは幸せに暮らしているのですが、
たったひとつだけ、心を満たしていないことがあります。
それは、かつて共に過ごし、愛し合い、寄り添っていた人が、
ここにいないことが、恋しくて、寂しいのです。
まるで純愛もののラブストーリーのようにペットたちは主人の帰りを待ちます。ここがこの詩で自分が受け入れられない最大のポイントかな
なんていうか自分の感情をペットに押し付けている感じがするんです。「私を愛してくれている」存在としてペットを見ているというか……
自分は犬、猫を飼ったことがありますが、主従関係を重視する犬はともかく猫なんて飼い主のことなんてほぼ気にしていません。お腹が空いたときはにゃーにゃー鳴いて媚びを売りますが、お腹がいっぱいになると猫と飼い主の関係は無になります。犬だって忠犬ハチ公のような義理堅いのがいるのは知っていますが、年単位で放置されれば大抵の個体は飼い主の存在なんて忘れて自分たちで行動しはじめるのではないでしょうか
犬や猫はどこまで人間っぽく見えたとしても人間ではないです。他人に対して「こう思っていて欲しい」と願うのは勝手ですが、その願望があたかも実際に起きているかのように書くのは良くないですね。理想が現実を定義してはいけません
元々の詩の内容とは異なり日本ではペットが死んだときに「虹の橋を渡る」と表現するので、日本のペットは飼い主を待っていません。飼い主が地獄に落ちても動物は安心です
この「虹の橋を渡る」という慣用表現はなぜ普及したのでしょうか?
まず間違いなく言えることは、「死ぬ」という表現がストレートでショッキングな表現であるためにその意味をやんわりさせるために使われているということです
「うちのタマが死んだ」だと『西の魔女が死んだ』みたいになんかぶっきらぼうな印象を与えてしまいますからね。人物に対しては、死ぬことに対して「亡くなる」とか「息を引き取る」「旅立つ」などが使われます。「猫が亡くなる」「猫が息を引き取る」はたしかに日本語の表現として違和感あります。「猫が旅立つ」は単純に脱走ですね。人物用の表現が使えないために、動物用に死亡の婉曲表現が求められるようになり、「虹の橋」が抜擢されたというのが大きな理由でしょう
加えて、「虹の橋を渡る」というイディオムが既存の日本語の体系に存在していなくニュートラルな印象を与えるのもよく使われる理由の一つでしょう。「三途の川を渡る」「仏になる」とか「天に召される」は特定の宗教の世界観を前提とするものなので、不特定多数の人間に発信する際には受け取る人によって細かなニュアンスの違いが生じるので誤読される可能性があります。その点、虹の橋は新しい表現でしがらみがなく、耳障りもいいので好まれて使われたのでしょう
ペットロスを防ぐために使われるようになったという説明も見かけます
確かに「死んだ」ではなく「虹の橋を渡った」を使うと亡くなったペットが幸せになったような印象になります。大切にしていたペットがいなくなるのは寂しいので、表現を変えることで少しでもその悲しみが和らぐのかもしれません。悲しみが緩和されれば前に進むまでの時間も早くなるので、嘘も方便というわけです
まぁ、でも、これはどうなんでしょうかね。自分なんかは好きだったペットが死んで悲しいときに「タマはね、虹の橋を渡ったんだよ」と言われても「黙れ」としか思わないですが。本当かどうかわかんないのだから何の慰めにもならないのでは? 「嘘でも愛してるって言って」理論が未だによくわかりません
意地悪なことを言いましたが、「虹の橋を渡る」で救われる人がいるのならそれは良いことです。ペットロスの辛さを回避する手段の一つとしても「虹の橋」は今後も使われ続けるのでしょうね
でも、虹の橋なんてないんだよなぁ
ちなみに、Wikipediaに掲載されている虹の橋のイメージ画像は次のとおりです
なんか既視感あるなと思ったら、マリオカートのレインボーロードですね、これ。渡る際には落下に気をつけるようペットたちには伝えておいた方がよいかもしれません