『認知バイアス事典』なるものを買って読んでみようと思う イントロ

どうもshigoroxです。

Amazonプライムデーの一環でKindle本が安くなっていたので、何か買わなくては、と思い『認知バイアス事典』を買ってみました。

定価1980円のところ、770円で購入。定価の38%の値段で買えました。お得!

『IT全史』なるものも面白そうだったけど、普段から本をあまり読まない自分が一気に二冊買うと、2冊目に買った本が積ん読になる可能性が非常に高くなってしまうので、我慢しました。

Winnyの開発者である金子勇さんの弁護を行った弁護士が描いた本も安くなっていました。こちらは70%以上のオフ。俺はすでに定価で買っているので、購入はしませんでしたが、どちゃくそ面白い本でした。

ともかく、話を『認知バイアス事典』に戻しましょう。最近はやりの「大全」ものです。『独学大全』とか『ストレスフリー大全』とか本屋でよく見かけますよね。これもこの系譜なんでしょう。

この本のよさげなところは、俺たちが陥りがちな論理的、心理的な誤りを系統だてて解説してくれているっぽいところです。

本の内容は大まかに3つに分けられるらしく、論理的な誤りについて解説した第一章。認知科学的な知見から陥りがちな誤謬について述べた第二章。そして、社会心理学的にはまりやすい考え方について紹介する第三章。人の判断の誤りについて、多角的な要素から迫っている本だといえます。

って言ってもまだ初めの部分しか読んでないんだけどね。毎日書いていると各ネタもなくなってくるし、しばらくはこの本の中身のようやくでも行おうかなと思い立った今日この頃。

1日3章ぐらいまとめれば、20日で終わる計算になるから飽きっぽい自分の性格的にも続けられそうなちょうどいい塩梅なのではないでしょうか。

というわけで今日は1章から3章まで行ってみましょう!

二分法の誤謬

生きるべきか死ぬべきか……な論理的な誤りです。多くの選択肢があるのにも関わらず、いつの間にか2択で考えさせられるように方向づけられてしまって、極端な結論に到達してしまう間違いです。

本の中では「買うと幸せになれる壺」が例に挙げられていました。壺を売りたがる人間は、「買ったら幸せ」「買わないと不幸」という二択を強いて来るのですが、これは壺を買わせるために意図的に選択肢を狭めているといえます。「壺を買わなかったが幸せになる」「壺を買っても不幸になる」という場合の考慮が抜けているからです。

ちょっと日常的な話題に置き換えてみると、転職するかしないかの判断も二分法の誤謬に陥りがちなトピックだといえますよね。「転職したほうがいいのか?」という問いかけをよく聞きますが、転職して後悔する人もいれば、同じ会社に居続けて力を発揮できないままの人もいるわけであり、転職自体には特に意味はないんですよね。転職というのは手段でしかないのですから、重要なのは転職で何を達成するか/会社に残ることで何をしたいか、ですよね。今より大きい会社に行けば楽になれるという考えも、この会社でうまくやれなければ人生終わりだという考えも、心理的に追い詰められていく中でハマりがちな二分法の誤謬の典型例だと思います。

この誤謬から抜け出すためには、「場合分け」を適切に行うこと。要素が複数あればその階乗分だけパターンがあるということを忘れないことが重要だと述べられています。

先に挙げた壺の例だと、「壺を買う」と「幸せになる」という二つの因果関係がテーマになっているのですから、2の2乗分のパターンがあるわけです

  1. 壺を買う => 幸せになる
  2. 壺を買う => 不幸になる
  3. 壺を買わない => 幸せになる
  4. 壺を買わない => 不幸になる

いろいろなパターンを想定してみることで視野狭窄に陥ることを防ぐことができます。

 

ソリテス・パラドックス

何気なく2つ目に登場した「砂山のパラドックス」ですが、読んで「うーん」と唸ってしまいました。

砂山から砂一粒を取り除いても砂山のまま。ならば、最後の一粒になるまで砂を取り除いてもそれは砂山と呼べるはずだ。

という屁理屈がもとになっているみたいです。俺たちの感覚からすると、砂一粒は明らかに砂山と呼ばないのに、「砂一粒を取り除いても砂山は砂山」という前提を付け加えられると、「あれ? 砂一粒でもあり得るのかな?」なんて妙に納得してしまいそうになります。

本を読むのを少し止めて、何がおかしいのかな……と考えてみました。本の構成的に最初に答えらしきものが描かれているのですが、やはり少し考えました。

「砂山」という連続的な概念に対して「砂」というミクロな視点を取り入れてしまったがために起こるのではないでしょうか。

例えば、「梅雨」というのは春から夏にかけての間に見られる雨の多い期間のことです。ただ、日本に「梅雨」の時期があるのを知らない人からしてみれば、それぞれの日にちの雨は個別の雨であり、「梅雨」という特定の気象現象には思えないわけです。「昨日も雨だったし、今日も雨だったし、明日も雨だ」と認識されるだけで、昨日の雨と今日の雨につながりが見いだせないのです。

砂山に関しても同様で、たまたま同一個所に積み上げられた砂の集合体を「砂山」と呼んでいるわけですが、顕微鏡で覗いた視点では砂山も「砂」にしか見えませんし、宇宙から砂山を見てみれば、ただの砂とほぼ見分けがつかないかもしれません。

俺たちは、個別の事象に何か関連性を見出して、その関連性に対して概念を当てはめることがあるのだと思いますが、そのような概念に対して、個別の事象からアプローチを仕掛けている、ということがこのパラドックスが起きる原因なのではないでしょうか。ものすごくくだけていえば、適切な距離で見ればきれいに見える印象派の絵を、ものすごく近くで見て「これは絵じゃない!」って言ってるみたいな事じゃないでしょうか。全体として成り立っているものに名前が付けられていることがあるんだよってこと。

本に書いてある回答としては「砂山」という定義があいまいなのが原因だそう。どこからどの範囲を砂山と呼ぶのかの定義がないために、このパラドックスは起こりえるのだとか。

言われてみると、単に共通認識の問題なのかもしれないです。砂山の定義を明確にすることで、このパラドックスは解消されるとのこと。

多義の誤謬

本の中で述べられていたアリスの例はちょっとわかりにくかったです。

鏡の国のアリス』の中で「給料として、週に2ペンスと1日おきのジャムを渡す」という条件の下でアリスは白の女王の着付け係になるらしいのですが、白の女王は1日おきという言葉を逆手にとってアリスにジャムを渡そうとしません。

「1日おきのジャムですよ。今日は今日、おきの日とは言えませんからね」

"It's jam every other day; to-day isn't any other day, you know."

今日以外の日は"other day"なのですが、ジャムの支払いを行うのは"other day"です。ゆえに、今日がジャムの支払いを行う日だというときはやってきません。

 ここまで書いてみて少し理解できました。太字のotherの対象となる日が異なっているためにこれは間違っているのでしょう。

最初の"other"はジャムを支払った日を基準にotherと言っているのですが、後者のotherは今日を基準としてotherと言っています。

多義の誤謬とは複数の意味を持つ言葉を意図的に混同することによっておこる論理的な誤りだとのことです。

言葉遊びといえば、言葉遊びなのですが、危うくはまってしまいそうになりました……

今日はここまで。明日のネタもできたし、安泰です!