朝日新聞のポッドキャストで「NHKがサブスクになる日 放送法の改正、私たちにどう関係があるの #1575」という回を聞きました
NHKのインターネットでの業務が必須業務化したというニュースについて記者たちが語っているのですが、面白かったのは震災の報道についてです
女性記者が2024年初頭に起きた能登半島地震の報道について「エモい報道」が目立ちすぎていたと疑問を投げかけます。「エモい報道」とは要するに被災地を訪れて可愛そうな被災者をフレームに収めて読者/視聴者の哀れみを誘うような報道であったり、被災してもめげずに復旧作業を行う住民を取材して「能登の人は頑張ってます! 応援しましょう」で終わるタイプの応援報道です
ポッドキャストの話の中では、このような報道が増えてきたのは記者たちが「批判を恐れているから」だと分析されていました。誰かを応援したり、感動させたりするような報道はバッシングの対象としづらいですからね。能登の人が悲しそうにしている映像に対して「こんなのに金使うんじゃねぇよ!」なんて言おうものならその発言者のほうが批判を浴びてしまいます。世の中にはなんとなく批判し辛いものってありますよね。不幸にあった人、そしてそれを紹介する記事もその一つと言えます
能登半島地震が起きたときに一番最初に話題になったのは、「交通規制」でした。地理的に多方面から支援を受けることが難しいために、支援の数を絞らなければいけなかったという情報が多くありました。何の役にも立たない報道関係の人間より物資の支援を優先させたほうがよいという意見が大半だった気がします
そのためか、能登半島地震の現地報道は割と遅めに行われた記憶があります。加えて、記者たちに引け目があったのか毒にも薬にもならないような無味乾燥な報道が多かった気がします
状況が落ち着いてきてからはポッドキャストで触れられているようにエモい報道が色々出てきたのかな、とは思います
インターネット時代になってどんなメディアでも双方向の通信ができるようになりました。読者に記事を投げ渡すのではなく、記事を公開したあとにその記事にコメントがついて読者たちの反応が見えるのが当たり前になりました
こうなると、記事を書く側も読む人たちの気分を損ねないように書く必要がでてきます。少しでも尖ったことを書いてしまうと記事が「炎上」してしまい、会社の信頼や売上に影響を及ぼす可能性が出てしまうからです。記者といえども組織に属する身です。下手なことを書いて会社に迷惑をかけてしまうのを嫌います
そのために、記者たちに「読者たちが望んでいる」ことを書くようにする圧力が加わります。「読者が読みたいことを書くなんて当たり前じゃないか!」という意見もあるでしょうが、震災報道の場合「読者」の多くは被災者ではないので、読者が読みたいこと=読者が望む被災地像になります。被災の悲惨さが強調されればされるほど記事は悲劇的に仕上がり、読者の興味関心を引きます。求められるのは「被災に苦しみながらも健気に生きる被災者」であり、それを憐れむことによって読者の感情が満たされるのです
当然、このような報道では真実は二の次です。読者が求めているのは「能登で何がおきているのか」ではなく、「能登の災害を通じてどのような感情を得られるか」です。結果として被災者のためではない報道が多く生み出されてしまいます
ここまで書いておいて、このような現象は災害報道だけではなくSNS上で日常茶飯事としておきていることだと言えます。一言でまとめれば「アテンション・エコノミー」ということなのでしょうが、結局、人間が情報に求めているものは真実性ではなくてその情報を通じて得られる感情の方です
他者を攻撃するためだけにあるような情報、世の中をからかうような情報、対立を煽るような文章……このような情報がインターネットに氾濫しているのは人々がデータではなくエモーションを重視した結果であると言えます
となると、災害報道でエモい報道が目立ったという指摘は、インターネットのメディアにオールドメディアが影響を受け始めているということでもあり、オールドメディアの「真実を追求する」姿勢が「読者の感情を満たす」欲求に負け始めているということでもあるかもしれません
真実ってつまらないですからね。SNS上で陰謀論が流行るのはそれが原因なのかも