江戸時代のアイドルはいかにして作られたか 『遊廓と日本人』

 

 

読書感想文みたいなタイトルですね。まぁ、実際読書感想文なのですが。

 

 

田中優子先生が著された『遊廓と日本人』という本を読みました。内容は江戸時代から発展してきた遊廓について、誕生の経緯から働く人間の役職、1年間の行事やなどをテーマにして概論的に内容を論じていくというもの。

表紙の帯には『「日本史のタブー」を再考する。』なんて扇情的なキャッチコピーが載せられていますが、内容そのものはテーマに比べてかなりマイルドです。著者の遊郭に対する評価も結構マイルドで、前借金を前提に女性を幽閉し強制的に労働させる遊廓のシステムには人権的問題があるが、歌舞伎や和歌、伝統行事などの継承の場となったことは必ずしも悪いことではないというスタンスです。

なので「遊廓ってこんなとこだったんだよ」って紹介するノリの図鑑的意味合いの強い本です。現代的価値観からしてみれば田舎の貧しい家の女性をお金で買い取って特定の場所に閉じ込めて風俗嬢に仕立て上げるなんて突っ込みどころ満載ですからね。著者は遊廓を含め江戸文化に詳しい女性の先生ですから、言いたいことはいっぱいあったと思います。多くの人に読んでもらうためにあえて客観的な事実のみ紹介するという形にしたのでしょうか。

そのためか、テーマとか煽り文句のわりに内容に毒気がなくて肩透かしを食らってしまったような感じになってしまったのも事実です。

 

本書の中で出てくる井原西鶴の遊女評なんか面白かったです。江戸時代の作家の井原西鶴は『世間胸算用』で、遊女ではない一般の女性のことを鈍感で文化的に遅れている連中だとこき下ろしているそうです。現代で言えば、有名な物書きのおっさんがやっぱりキャバ嬢がナンバーワン! と言っているようなものでしょうか。若干の虚しさを覚えます。遊女は当然のことながら遊廓という特殊な社会の中で男性に対する接待の方法を望む望まないにかかわらず日々学んでいますから、男性の扱いが抜群にうまいのは当然では?

以下の記述も面白いと思いました。

遊女は客の前でものを食べることと、金銭に触れること、また金銭の話をすることなどを禁じられていました。

金銭に触れることが禁じられていた理由はわかります。遊女は借金のかたとして遊廓に閉じ込められているのですからお客さんから直接お金をかき集められてしまえば、遊女屋の抱え主は困ってしまうわけです。遊女が直接お金を得られれば借金返済の速度が速まって遊女を働かせられる期間が短くなってしまいますし、そもそもお店にお金が入ってきません。

でも、そんなことがまかり通ってしまえば、遊廓というシステムそのものが維持できなくなってしまいます。だから禁じたのでしょう。ただ、実際問題としてお客さんとしては遊女屋の経営者よりも遊女に直接お金を渡したいという人も多かったのではないでしょうか。だって、その女の人が気に入って通ってるわけだし。

お店と遊女の力関係ってどうなってたんでしょう。お店は遊女がいなければ成り立たないですが、遊女はお店がなくてもやっていけるのでは? と思っちゃったりします。最上位の遊女である花魁ともなれば、お客さんが払う額もそれなりになってくるわけですからそんな存在が借金を抱えているというのはなんか変ですよね。返済した後も働く女性っていたのでしょうか。それとも働く女性からは絶対に返済できないシステムになってたのかな。

お客さんの前でものを食べることも禁じられていたそうですが、これは理由が全く分かりません。女性がそば食ってるところ見たい人もいるのでは?

考えられる仮説としては「アイドルうんこしない」理論の延長線上にあるのかもしれまということです。江戸時代は仏教の戒律がベースとなった肉食禁止の文化が根付いていましたし、生き物をいただくという「食べる」という行為に対する穢れの意識があったのでは。江戸時代のアイドル的存在である遊女はほかの生命を殺害することを暗に意味する「食べる」という行為をしてほしくない/もしくはそんなことしない存在であってほしいという願望から「食べる」を見せなくしたんじゃないかというのが俺の仮説です。「アイドルはうんこしない」「飛影はそんなこと言わない」理論です。勝手に理想を作って、それで縛り付けるなんて本人にとってしまえばいい迷惑です。

遊女のことを天女と呼んで崇めて、それ以外の女性のことを地女と呼んで貶める風潮もあったみたいですし、我ながらあながち間違っていないと思います。あと、アイドル恋愛禁止論と同じく遊廓の遊女も自由恋愛は基本的に禁止されていたみたいです。ここらへん、今も昔も変わってないですね

……しかし恋人が金持ちではない場合や親から勘当を受けている場合は、恋人は「間夫」となります。間夫とは、お金を払わずに、遊廓の主人に内緒で密会する恋人のことです。仕事がおろそかになるので、遊女を抱える経営者たちはこれを禁じました。

(江戸時代の風俗狂いの金持ちたちは一体この間夫たちに何回脳を破壊されてきたのでしょうか……!)

 

総括

江戸から~明治ぐらいまでの遊郭史をできるだけ読みやすくまとめた本でした。冒頭で『鬼滅の刃』の遊郭編のお話が出てくることから対象読者は遊廓について全く知らない人でしょう。実際、俺もそうだったのでレベル1ぐらいの難易度の本で助かりました。

遊廓というシステムが意外に文化的に成熟されていたということに驚きました。1年の行事を欠かさずやっていたほか、桜並木を河岸に作るために巨額を投資した工事が行われたり、歌舞伎の元となる演劇が作られたりなど、後世に文化的に寄与した部分も多いみたいです。働いている遊女たちに対して和楽器漢詩などを学ぶことが奨励され、遊廓に通う男性たちは肉体的な魅力だけではなく文化的な魅力も重視していたということでしたから、江戸という都市に世界的に見てもまれな文化的な空間が生まれていたのではないでしょうか(まぁ、ただどんなきれいごと言ってもやってくる男性の最終的な目的はエロいことだったと思いますけど)。

ただ、この本の著者もそうですが「女性が性的な商品として扱われるのはおかしい」というスタンスには俺は少し意義があります。女性が自分の性的魅力を理解したうえで、それをお金に換金するのは問題ないんじゃないでしょうか。本当の問題は「女性が自分の性を自己所有できない」の方だと思います。今回の遊郭のお話で言うと、「~屋」の経営者(たいていは男性)にお金が入って遊女に全くお金が入ってこないというシステムに問題があるのであって、女性が自分の性的な魅力を労働力に換えていたこと自体は特に問題ない気がします。どんな労働者も体力や知能などの自分の特性をお金に変換しているのですから、女性が自分たちの身体的な特徴を全く活用できないというのもそれはそれで不自由を強いていることになるのでは? ただし、こういうことも含めて女性が決めることかもしれないので男性の俺が言及している時点で圧力となってしまうのか……?

でも、こういう主張って「性は悪いものだ」という大前提が隠れている気がするんですよね。話がそれてしまったので、ここまでにします。

『遊廓と日本人』面白い本でした。